伊達政宗の母、義姫と仙台城(2) 毒を盛った子に看取られ

★伊達政宗の母、義姫と仙台城(2)

2016.01.09


仙台城跡に建つ伊達政宗像(濱口氏撮影)【拡大】

 父、伊達輝宗(てるむね)を自らの対応のまずさで亡くしても、政宗の粗暴な性格は改まらなかった。

 輝宗の死から3年後の天正16(1588)年、政宗は奥州探題の末裔、大崎義隆を攻める。このとき、母、義姫(よしひめ)の兄である最上義光(よしあき)が大崎氏に加勢したため、政宗と義光は、伊達領と最上領の国境で対峙する。

 義姫は争いを止めさせようと、両軍の陣の真ん中に仮屋を建てて居座ると、「両軍が戦うならば、まずは私を殺しなさい」とすごんでみせた。

 両軍は約2カ月にわたってにらみ合いを続けたが、和議が成立し、軍を引いた。実家と婚家の対立という重大事を回避させたのは、義姫の決断と行動のたまものと言えるだろう。

 天正18(90)年、豊臣秀吉が小田原城(神奈川県小田原市)を攻める。政宗にも、秀吉から「小田原に参陣せよ」という書状が届く。

 伊達家中では、義姫や多くの家臣が、小田原に参陣しても、政宗は切腹させられ、伊達氏はお取り潰しになる可能性があると思っていた。

 そこで、お家を守るため、義姫は政宗を毒殺し、弟の小次郎を当主に据えようとする。義姫は、政宗が小田原に出発する前日、自分の館に招く。宴席に出された料理を食べた政宗は腹痛に襲われる。症状は軽かったが、政宗は「料理に毒が盛られていたに違いない」と考えた。

 そこで、政宗は小次郎を呼びつけ詰問すると、「母上が毒を盛った」と白状した。小次郎に罪はなかったが、母を斬るわけにはいかず、母の代わりに小次郎を成敗する。

 政宗毒殺に失敗し、溺愛した小次郎を亡くした義姫は、義光を頼って、山形城(山形市)に駆け込んだ。義光は義姫を受け入れ、面倒をみる。

 自分を殺そうとした母でも、血がつながった母子である。元和8(1622)年、最上氏がお家騒動で徳川幕府からお取り潰しになると、政宗は義姫を仙台城(宮城県仙台市)に呼び寄せる。義姫はすでに75歳、政宗も56歳になっていた。

 そして、義姫が少しでも過ごしやすいようにと、城の南東に屋敷を造り住まわせた。翌年、義姫は政宗に見守られながら亡くなる。政宗は、義姫の菩提寺、保春院を建立すると、近くに自分の隠居所を造り、晩年はそこで暮らした。 =次回は伏見城(京都市伏見区)と松の丸殿

 【所在地】宮城県仙台市青葉区川内1の11
 【交通アクセス】JR東北本線・東北新幹線「仙台駅」からバスで約25分「仙台城跡南」下車、徒歩約5分

 ■濱口和久(はまぐち・かずひさ) 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学地方政治行政研究所客員教授、一般財団法人防災検定協会常務理事を務める。著書に『探訪 日本の名城 戦国武将と出会う旅(上巻・下巻)』(青林堂)など。

 

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