前田利家の正室、まつと末森城(1) 「側室5人」でも夫婦仲よく

★前田利家の正室、まつと末森城(1)

2016.02.27

小丸山公園にある「利家とまつ」像=石川県七尾市
小丸山公園にある「利家とまつ」像=石川県七尾市【拡大】

 加賀百万石の礎(いしずえ)を築いた前田利家の正室、まつは天文16(1547)年、尾張国(愛知県西部)に生まれた。父親(名前は不明)が亡くなったため、4歳のとき、前田利昌の養女となる。利昌の妻が、まつの母の妹だったからだ。

 弘治4(58)年、利家21歳、まつ12歳のとき、いとこ同士で2人は結婚した。

 利家はこのころ織田信長のもとで、赤母衣衆(あかほろしゅう=小姓から選抜された親衛隊)として従軍する。槍(やり)の名手で「槍の又左」と呼ばれていた。

 結婚の翌年、長女、幸(さち)が生まれる。親子3人で幸せな生活が始まった矢先に、事件が起きた。信長の同朋衆である拾阿弥(じゅあみ)を利家が斬ったため、織田氏の家来を解雇されてしまったのだ。

 斬った理由は、利家がまつからもらった「笄(こうがい)」という髪結(かみゆい)の道具を拾阿弥に盗まれたり、侮辱を繰り返されたことに耐えられなかったからだといわれている。

 理由はどうであれ、利家は妻子ある身で職を失ってしまった。まつはこのとき浪人中の利家を支え続ける。永禄3(60)年、利家は信長に許され、再び織田氏の家来となった。

 以後の利家は、信長が推進する天下統一事業に従軍。元亀元(70)年4月、浅井・朝倉連合軍と激突した金ヶ崎の合戦では、撤退する信長の警護を担当する。同年6月の姉川の合戦でも武功を挙げる。

 天正2(74)年、柴田勝家の与力となり、越前一向一揆の鎮圧に力を発揮する。天正9(81)年には、信長より能登国(石川県北部)を与えられ23万石の大名となった。

 まつは幸を含めて二男九女を産んでいる。戦国時代の武将の妻は多産だが、11人も子供を産んだ女性は数少ない。

 利家とまつが若いとき、同じ長屋に暮らしていた羽柴秀吉(当時は木下藤吉郎・のちの豊臣秀吉)とおねとの間には、子供がなかなかできなかった。そこで、秀吉は五女の豪姫を養女として利家からもらい受けている。

 利家とまつの夫婦仲は良好だった。だが、利家は生涯において5人の側室を設け、7人の子供が生まれている。まつは利家が側室を設けることに、一切、不満を漏らさなかったという。 =つづく

 【所在地】石川県羽昨郡宝達志水町竹生野
 【交通アクセス】JR七尾線「宝達駅」から徒歩約40分

 ■濱口和久(はまぐち・かずひさ) 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学地方政治行政研究所客員教授、一般財団法人防災検定協会常務理事を務める。著書に『探訪 日本の名城 戦国武将と出会う旅(上巻・下巻)』(青林堂)など。

 

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