前田利家の正室、まつと末森城(2) 人質申し出 百万石の礎に

★前田利家の正室、まつと末森城(2)

2016.03.05

末森城跡に建つ末森山古戦場碑
末森城跡に建つ末森山古戦場碑【拡大】

 前田利家とまつとの夫婦仲は非常に良好で、まつが11人の子供を産んだことは、前回紹介した通りである。

 人間としての大きさは、利家よりもまつの方が上だったようだ。『川角(かわすみ)太閤記』によると、利家は、加賀国(石川県北部)の隣国である越中国(富山県)を治める佐々成政と、末森(すえもり)城(石川県羽昨郡宝達志水町)の合戦で3度激突するも、1度も勝つことができなかった。敗戦の原因は色々あるが、次は絶対に負けるわけにはいかなかった。

 まつは、この状況を見かねて、金蔵から金子(きんす)の入った袋を持ち出すと、利家に対して「貯蓄よりも先に、成政に勝利することが先決です。この金子で兵士や武具を集めて戦うときです」といったという。まつは日ごろから、利家が蓄財に励むことを、快く思っていなかった。

 このときばかりは、まつの迫力によって蓄財を有効活用し、兵士や武具を集め、利家は成政に勝利する。この合戦を境として、利家は北陸を代表する大名としての基盤を確立していく。

 豊臣秀吉の死からわずか1年後の慶長4(1599)年、利家も亡くなる。前田家は利長が跡を継ぐ。豊臣五大老のなかで、徳川家康に対抗できる人物がいなくなると、「利長が家康の暗殺を企てている」という噂が流れ、徳川軍と前田軍とが激突する一触即発の状態となる。

 まつは、前田氏の危機を救うため、自ら進んで徳川氏の人質となることを決心する。このとき、まつは利長に対して「何事もお家のことを一番に考えなさい」と言い残して、江戸に向かったという。

 一方、徳川氏は、まだ3歳だった秀忠の次女、珠(たま)姫を、利家の4男、利常と政略結婚させることで、前田氏の動きを封じた。

 まつは利常の母、千世と交代するまでの14年間、江戸で人質生活を送った。まつの決心が前田氏を救い、加賀100万石を築く礎となったことは間違いない。

 後に徳川幕藩体制において、諸大名妻子の江戸居住制が確立するが、まつは、その第1号となる。

 大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぶと、まつは、秀吉の未亡人、おねと、京都でたびたび会っては、昔の話で盛り上がったという。元和3(1617)年、まつは金沢城(石川県金沢市)で71歳で亡くなった。 =次回は徳川家康の側室、阿茶局と浜松城(静岡県浜松市)

 【所在地】石川県羽咋郡宝達志水町竹生野
 【交通アクセス】JR七尾線「宝達駅」から徒歩約40分

 ■濱口和久(はまぐち・かずひさ) 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学地方政治行政研究所客員教授、一般財団法人防災検定協会常務理事を務める。著書に『探訪 日本の名城 戦国武将と出会う旅(上巻・下巻)』(青林堂)など。

 

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