一の台と聚楽第 秀吉の側室だったが秀次の正室に (1/2ページ)

★一の台と聚楽第

2016.04.30

西本願寺(京都市下京区)に移築された聚落第の遺構
西本願寺(京都市下京区)に移築された聚落第の遺構【拡大】

 「嫉妬」という言葉は女の代名詞といわれているが、男の「嫉妬」も恐ろしい。文禄4(1595)年8月2日、秀吉が京都三条河原で子女三十数人を斬首する事件が起きる。殺されたのは秀吉の姉、ともの子、豊臣秀次(ひでつぐ)の正室、一の台だ。

 一の台とは、どういう女性だったのか。永禄5(1562)年、公家の菊亭晴季(はるすえ)の子として生まれる。

 晴季は、織田信長の後継者となった秀吉を近衛氏の養嗣子にし、関白職に就けた功労者の一人だった。そして、関白となった秀吉のもとに、娘の一の台を側室として差し出した。一の台は三条顕実(あきさね)に嫁いだが、おみやという娘を産んで、未亡人となっていたからだ。

 ところが、側室になってしばらくして一の台は病気となり、秀吉のもとを去る。

 実家で治療に専念していた一の台の病気が癒えると、晴季は、秀吉から関白職を譲り受け、聚楽第(じゅらくてい=京都市上京区)で暮らす秀次のもとに一の台を出仕させた。

 一の台は、とても美しい気品にあふれた女だったため、3歳年上だったが、秀次はすぐに気に入った。秀次には若御前(わかごぜん)という正室がいたが、一の台を御台所(みだいどころ=正室)とした。連れ子の13歳のおみやも美しかったので、側室として、母娘を寵愛する。

 

産経デジタルサービス

産経アプリスタ

アプリやスマホの情報・レビューが満載。オススメアプリやiPhone・Androidの使いこなし術も楽しめます。

産経オンライン英会話

90%以上の受講生が継続。ISO認証取得で安心品質のマンツーマン英会話が毎日受講できて月5980円!《体験2回無料》

サイクリスト

ツール・ド・フランスから自転車通勤、ロードバイク試乗記まで、サイクリングのあらゆる楽しみを届けます。

ソナエ

自分らしく人生を仕上げる終活情報を提供。お墓のご相談には「産経ソナエ終活センター」が親身に対応します。