堀尾夫人と松江城 子供3人先立つ悲運

★堀尾夫人と松江城

2016.05.14

松江城
松江城【拡大】

 堀尾吉晴(よしはる)は、慶長5(1600)年の関ケ原の合戦の武功により、徳川家康から出雲・隠岐2国(島根県東部・隠岐の島)23万石を与えられた。

 吉晴は入封すると、山陰地方で栄えた尼子(あまご)氏や、吉川(きっかわ)広家の居城だった月山富田城(島根県安来市)に入城したが、あまりに険しい山城なので、風光明媚で水運にも恵まれている松江に城地を定めた。これが現在の松江城(松江市)である。

 吉晴の正室の名前は不明で、堀尾夫人と呼ばれる。尾張国(愛知県西部)の津田党の出身という記録が残るのみだ。

 吉晴と堀尾夫人との間には3人の子供がいたが、慶長7(02)年、次女の小那(こな)姫が婦人病を患い、苦しみに耐えきれずに20歳で自殺した。翌8(03)年3月、長男の忠氏(ただうじ)が、松江城の城地の下見から月山富田城へ帰る途中、マムシにかまれて26歳で急逝する。

 堀尾夫人は、たて続けに2人の子供を亡くすという不幸に見舞われ、しばらくの間、悲しみに打ちひしがれていたといわれている。

 一方、吉晴は、忠氏の6歳になる子、忠晴に家督を継がせることを徳川幕府に願い出て、許可をもらう。

 これをおもしろく思わなかったのが、長女の勝山(かちやま)だ。勝山は堀尾氏の一番家老、野々村河内守に嫁いでいたが、15歳になる自分の子、掃部(かもん)を堀尾氏の跡継ぎにしたいと考えた。

 勝山は、忠晴を殺すことを計画するも、露見してしまう。河内守は隠岐に流されて自刃、掃部は京都に逃げるも捕えられ切腹。勝山も掃部の死から10年後に亡くなった。

 慶長16(11)年6月には、松江城の完成を見ないまま、吉晴が69歳で亡くなる。

 自分よりも先に3人の子供を亡くした堀尾夫人は、孫の忠晴が立派な領主になることだけを期待しながら、亡き吉晴の遺志を引き継ぎ、松江城を完成させた。

 堀尾夫人は、吉晴に遅れること8年、元和5(1619)年4月に亡くなった。

 その後、忠晴は跡継ぎがないまま松江藩江戸藩邸で病死したため、堀尾氏は断絶してしまう。

 =次回は宇都宮鎮房の娘、お鶴と城井谷城(福岡県築土町)

 【所在地】島根県松江市殿町1の5
 【交通アクセス】JR山陰本線「松江駅」から一畑バス「県庁行き」で約10分「大手前」下車、徒歩約5分

 ■濱口和久(はまぐち・かずひさ) 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒。陸上自衛隊、栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学地方政治行政研究所客員教授、一般財団法人防災教育推進協会常務理事を務める。著書に『探訪 日本の名城 戦国武将と出会う旅(上巻・下巻)』(青林堂)など。

 

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