諏訪御料人と上原城 父を殺した信玄の側室に

★諏訪御料人と上原城

2016.05.28

上原城跡
上原城跡【拡大】

 上原城(長野県茅野市)の城主、諏訪頼重は、甲斐国(山梨県)の守護、武田信虎と同盟関係にあった。信虎は同盟を強化するため、娘の禰々(ねね)を頼重の正室として嫁がせた。

 天文10(1541)年6月、禰々の兄、信玄が、父、信虎を甲斐国から追放すると、武田氏と諏訪氏の同盟関係がギクシャクするようになる。

 信玄は、天文11(42)年6月、諏訪氏との同盟を一方的に破棄。武田軍は2万人の軍勢で上原城に攻め込んできた。それに対して諏訪軍は、わずか800人の軍勢しかいなかった。

 勝ち目がないと判断した頼重は、城に火を放ち、支城の桑原城(茅野市)に逃れたが、最後は降伏する。このとき、頼重の側室、華蔵院と12歳の娘、諏訪御料人(ごりょうにん)は城を脱出して身を隠していた。

 信玄は頼重を捕え甲斐国に連行すると、妹婿としてではなく、捕虜として扱い、東光寺(山梨県甲府市)に幽閉(ゆうへい)したうえで、切腹を命じた。

 頼重は「わが屍(しかばね)は諏訪湖に沈めよ」と遺言し、憤りのなかで自刃した。禰々も兄の仕打ちを恨み、わずか16歳で頼重の後を追うように死んでいった。生まれたばかりの嫡子、寅王(とらおう)も病没する。

 天文14(45)年、14歳となった諏訪御料人は、信玄の側室となり、武田氏の居城、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた、山梨県甲府市)に迎えられる。彼女にとって、信玄は父を殺した恨むべき相手だった。だが、側室にされた身体は、彼女の心情を無視するかのごとく、子供を宿し、信玄亡き後の武田氏を継ぐことになる勝頼を産む。

 諏訪御料人が、勝頼と一緒に過ごした期間はあまりにも短かった。弘治元(1555)年11月6日、勝頼が10歳のとき、身体が病に蝕(むしば)まれ、25歳の若さで亡くなってしまう。

 信玄は、諏訪御料人を中興開基として、信州高遠(たかとう)に建福寺(長野県伊那市高遠)を興した。勝頼は母の死から7年後、「諏訪四郎勝頼」と名乗ると、母の寺を手厚く保護し、24歳のときに位牌を高野山成慶院にたて、孝行を尽くした。 =おわり

 【所在地】長野県茅野市茅野上原
 【交通アクセス】JR中央本線「茅野駅」下車、徒歩約20分

 ■濱口和久(はまぐち・かずひさ) 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒。陸上自衛隊、栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学地方政治行政研究所客員教授、一般財団法人防災教育推進協会常務理事を務める。著書に『探訪 日本の名城 戦国武将と出会う旅(上巻・下巻)』(青林堂)など。

 

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