原城 「島原の乱」一揆軍3万7000が籠城 (1/2ページ)

★原城

2016.07.16

原城跡
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 原城(長崎県南島原市南有馬町)は明応5(1496)年、日野江城(同市北有馬町)の支城として有馬貴純(たかずみ)によって築かれる。周囲4キロメートルの三方を島原湾(有明海)に囲まれ、本丸、二ノ丸、三ノ丸、天草丸、出丸からなり、別名「日暮(ひぐらし)城」とも呼ばれた美しい城であった。

 有馬氏は、肥前国東部(佐賀県)の龍造寺(りゅうぞうじ)氏により再三侵略を受けるも、天正15(1584)年に起きた沖田畷(おきたなわて)の合戦で、薩摩国(鹿児島県西部)の島津氏と連合して勝利し、島原半島南部の領有をかろうじて維持する。

 江戸時代に入っても、有馬氏はこの地を領有したが、慶長19(1614)年、日向(ひゅうが)国(宮崎県)延岡に転封となる。代わって元和2(1616)年、大和五条(奈良県五條市)より松倉重政(しげまさ)が入封した。

 松倉氏の2代目藩主、勝家(かついえ)は、新しい藩庁として島原城(長崎県島原市)の築城に着手する。5層5階の天守を持つ大規模な城郭だったため、領民に過酷な負担を課した。このとき、元和の一国一城令もあり、原城と日野江城は廃城とした。

 松倉氏の藩政は、領民に苛酷な賦役(ぶえき)と重税を課し、キリシタン弾圧を厳しく行ったため、領民の怒りは頂点に達する。

 寛永14(1637年)年、島原藩領に隣接する天草諸島で天草四郎を盟主としてキリシタンが蜂起する。島原藩の領民たちも呼応して大規模な一揆に発展した。「島原の乱」の始まりだ。そして、一揆軍3万7000が原城に立て籠もった。

 

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