三木城 籠城2年…飢餓で力尽く (1/2ページ)

★三木城

2016.07.23

三木城跡の別所長治像
三木城跡の別所長治像【拡大】

 別所氏は播磨(はりま)守護代だった赤松氏の庶流で、古くから三木城(兵庫県三木市)を拠点に播磨国(兵庫県)東部の盟主として周辺の武将を従えた名族だった。

 畿内から中国地方への進出を狙う織田信長と、中国地方の覇者、毛利氏との間で緊張が高まると、両勢力に挟まれた播磨国は混乱する。

 天正3(1575)年、姫路城(姫路市)主、小寺氏が、黒田官兵衛を送って、信長に付くと、天正5(77)年5月、毛利氏は小寺氏を5000人の軍勢で攻める。だが、官兵衛は、わずかな軍勢で毛利軍を撃退する。

 結果、10月に羽柴(のちの豊臣)秀吉が信長の命令で播磨国に侵攻すると、播磨の豪族たちは織田氏に従うようになる。

 ところが、天正6(78)年2月、突如、三木城主、別所長治(ながはる)が秀吉に反旗を翻(ひるがえ)したのだ。

 中国地方攻略の総司令官に秀吉が就任した。別所氏は、素性の知れない成り上がりの指揮下に入ることに、名族のプライドが許さず、反旗を翻したともいわれている。

 長治は、毛利氏を通じて、三木城を拠点に周辺の国人領主の諸城と浄土真宗門徒を味方に付けた。家族ともども7500人の兵力を集めて籠城した。

 秀吉軍は、信長の長男、信忠の援軍と合流すると、三木城を包囲する。秀吉軍の軍師、竹中半兵衛の献策により、三木城を望む平井山に本陣を設け、別所に味方する諸城を次々に攻略していった。さらに、三木城への食糧の補給路を完全に遮断(しゃだん)した。

 

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