小倉城(下) 宮本武蔵が細川氏「客将」に (1/2ページ)

★小倉城(下)

2017.01.15

小倉城
小倉城【拡大】

 寛永9(1632)年、2代藩主、忠利(ただとし)のとき、細川氏は肥後国(熊本県)へと転封(てんぽう)となる。小倉城(福岡県北九州市)には、播磨(はりま)国・明石(兵庫県明石市)から、譜代(ふだい)大名の小笠原忠真(おがさわら・ただざね)が15万石で入城する。忠真の母は、徳川家康の孫にあたる。

 小笠原氏は、九州最有力の譜代大名として、島津氏、細川氏、鍋島氏、黒田氏、有馬氏、立花氏などの多数の外様大名を監視する九州探題的役割を徳川幕府から与えられ、明治維新まで10代続くことになる。

 小倉城下で起きた歴史上の有名な出来事としては、慶長17(1612)年に小倉藩立ち会いのもとで、小倉城天守から一望できる関門海峡の荒波に浮かぶ孤島・巌流(がんりゅう)島で行われた宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘がある。結果は、武蔵が勝利する。

 この決闘が縁で、晩年、武蔵は熊本城(熊本市)に移った細川氏に「客将」(きゃくしょう)として迎えられた。

 小倉城は慶応2(1865)年、幕府の第2次長州征伐のとき、幕府の重要な軍事拠点となり、小倉藩は最後まで長州軍と戦った。ところが、山県有朋(やまがた・ありとも)率いる長州軍の奇襲攻撃にあったため、10代藩主、小笠原忠忱(ただのぶ)は自らの手で城に火をはなって退却する。そのため城の建造物はすべて灰燼(かいじん)に帰してしまった。

 明治維新後は明治31(1898)年に陸軍第12師団司令部が設置された。ちなみに、この司令部には文豪、森鴎外(おうがい)が軍医として約1年半、勤務している。

 

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