岡崎城(下) 城主は譜代「神君出生の城」 まさに家康ゆかり (1/2ページ)

★岡崎城(下)

2017.01.28

岡崎城
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 徳川家康は三河国(愛知県東部)を統一すると、やがて遠江(とおとうみ)国(静岡県西部)に侵入。元亀元(1570)年には浜松城(静岡県浜松市)に入城する。

 岡崎城(愛知県岡崎市)は、嫡男、岡崎三郎信康が継いだ。だが、信康は天正7(1579)年、母、築山殿(つきやまどの)とともに「武田勝頼に密通している」との嫌疑を同盟関係にある織田信長にかけられ、家康は2人を殺す。

 天正18(90)年、豊臣秀吉によって家康が関東に転封になると、岡崎城には豊臣配下の田中吉政(よしまさ)が入城した。吉政は、城北・西の沼地を埋め立てて城下を整備し、田中堀と呼ばれた堀と土居による惣構(そうがまえ)の岡崎城に改修する。

 岡崎城が東海道有数の名城となったのは江戸時代になってからだ。「神君出生」の城として代々譜代大名が封ぜられ、吉政時代の城域を踏襲しながら大規模な改修工事が繰り返された。

 絵図・古記録などを参考に近世の岡崎城をみると、慶長6(1601)年に入城した本多康重は「二十七曲」と呼ばれるほど東海道を曲折させ、そのルートも北側へ大きく迂回させている。また、白山郭・東の馬出の築造、大林寺郭の堀の開削など、城域の拡張とともに、郭内の防衛上の強化を図った。

 元和3(1617)年には、2代藩主、康紀(やすのり)が天守を完成させる。3代藩主、忠利は、菅生川に篭崎堤を築堤し、郭周囲と菅生川端を石垣とするなど城域南部の守りを強化した。最盛期には本丸北方に6重、西方に4重の堀がめぐる大城郭を擁した。

 

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