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【高校野球 新・名将列伝】コーチ就任へ導いた恩師の“遺言” 浦和学院・森士監督 (1/2ページ)

★浦和学院・森士監督(3)

 森士(もり・おさむ、53)の埼玉・上尾高時代の監督である野本喜一郎は、指導者への道もつけてくれた恩人だ。野本がいたから、今の森がある。

 野本はプロ野球出身。投手として西鉄や近鉄で4年間プレーし通算18勝を挙げた。引退後は銭湯を営んでいたが、上尾の監督となって名将の冠を得た。

 県立校の上尾を22年間指揮して春夏6度の甲子園出場。1975(昭和50)年夏の準々決勝で原辰徳(前巨人監督)を擁する東海大相模(神奈川)を破ったり、79(同54)年夏にはドカベン香川-牛島のバッテリーの浪商(大阪、現大体大浪商)と名勝負を展開するなど、高校球史に名前を残す。

 森は「技術うんぬんよりも、人と人のふれ合いを大切にした。この人についていけば大丈夫という信頼感があった」と振り返る。あの時代には珍しく、選手の自主性を重んじる監督だった。

 野本は森が東洋大2年の時に浦和学院に移った。森が選手を諦めて指導者を目指すことを知り、「俺の下で手伝ってくれないか」と声をかけた。「私の監督生活で一番、練習した選手が森だった」と周囲には話していた。

 これで浦和学院コーチへの路線が敷かれたが、4年時に野本が病死してしまう。

 86(同61)年夏のことだった。県大会前に体調を崩して入院した野本は、育てたチームが甲子園初出場を勝ち取ったのに、采配はできず、開会式が行われた8月8日に64歳で亡くなった。

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