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【長州力 革命の真実】猪木を手本にし、超えられなかった革命ロード「毎日頭のどこかに名前があった」 (1/2ページ)

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 「革命戦士」長州力の“ホームリング”は、やはりプロレスラーとして育った新日本プロレスだった。

 1987年3月、全日本プロレスの看板シリーズ「チャンピオンカーニバル」をボイコットした長州。ジャパンプロレスに辞表を出し、ジャパンプロレス側は「追放」と応じた。法的措置も取り沙汰され、水面下で契約書を巡り激しい攻防が繰り広げられた。

 もっとも当時、長州本人は「あんなもの紙切れ」とうそぶき、「自分を欲しいのなら、解決するのは当然」と対応は周囲に任せていた。

 最初の引退マッチ(1998年1月4日=東京ドーム)でも、今年6月26日の二度目のラストマッチでも、英子夫人がリングに登場したが、結婚したのは87年7年5月。長州自身が「出戻り騒動」の渦中だったが、披露宴の模様はテレビ朝日「ワールドプロレスリング」で中継されている。強引なまでの「長州流」だったが、すべてが思い通りに進んでいく。

 同年10月5日、藤波と3年3カ月ぶりの対戦のゴングが鳴った。大いに盛り上がると思いきや、実はそうでもなかった。

 というのも、その前日の10月4日に、アントニオ猪木がマサ斉藤と「昭和の巌流島決戦」を実現。世間も巻き込んで、話題を集めていたのだ。長州と藤波の「名勝負数え唄」の復活は、猪木の仕掛けに完全に埋もれてしまった。

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