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【実況・小野塚康之 時代を超える名調子】荒木大輔のすべてを破壊した“金属バットの金太郎”水野の驚弾! 今までの実況では追いつけない (1/2ページ)

 カッキーン!!! 軽々と振り下ろした金属バットの快音が銀傘にこだまし、青空に放たれた白球は、マンモス甲子園のセンターにそびえるスコアボードを目指して急上昇していた。

 マウンド上で大会一番人気の荒木大輔(東東京・早稲田実業・3年)が振り向いて、その“どでかい軌跡”を目で追っていた。ドライブがかかった力強い打球はバックスクリーンの左、中段に突き刺さった。着弾してもなおエネルギーが残っているかのように、大きく跳ね上がった。

 頬を赤く染めてダイヤモンドを1周する“阿波の金太郎”こと、徳島・池田高2年生の水野雄仁(元巨人・投手)。私は“金属バットの金太郎”と呼ぶが、両こぶしを小刻みに振りながらニッコニッコでホームに帰ってきた。太い“IKEDA”の文字や他チームと同じ大きさの背番号「9」が、細く小さく見えた。

 やまびこ打線の生みの親、蔦文也監督がいち早く取り入れた本格的な筋トレで、筋肉が超絶に発達し、ユニホームははち切れんばかりにピチピチだった。アイドル・大ちゃん(荒木大輔)は木っ端みじん。沈着冷静で頭のてっぺんからつま先まで神経が行き届き、いつどこから見られても完全無欠の美男子が、無防備にも口をあんぐりと開けていた。場内は池田の応援団の喜びと“大ちゃん親衛隊”の悲鳴がしばらく交錯していた。1年生夏から5回の甲子園出場を果たした通算12勝のこの実力派に「今まで甲子園で勝ってきた投球が全く通用しませんでした。高校時代の全てを池田打線に破壊されたんです」と言わしめた。1982年夏の準々決勝、荒木にとっては甲子園の高校最後の試合、ヒーローが“やまびこ打線池田”にとって代わる潮目だった。

 “金属バットの金太郎・水野雄仁”は、それまでの高校野球の常識を覆した。同時にそれはアナウンサーである私にも強烈な一撃となった。導入から8年がたつ金属バットの新たな威力を見せつけられた気がした。ホームベース付近で水野のバットに弾かれた打球のスピード、頂点の異常な高さ、落下地点の見慣れぬ風景、そして3点を結んだアーチのスケールは脅威にすら感じた。もし水野のように金属バットを強く振る高校生が一気に増えたら、技術革新でバットの性能も上がったなら、甲子園のトレンドはすぐに伝播する。