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【Tokyo1964秘録】女子バレー・東洋の魔女 社業後、夜中3時まで練習は“当たり前” (1/2ページ)

 66・8%-。1964東京五輪女子バレーボール決勝、日本対ソ連のテレビ生中継の平均視聴率だ(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。これはスポーツ中継では歴代最高記録である。

 それほど日本中がテレビにくぎ付けになる注目の一戦で、大松博文監督も「全国民の期待に絶対応えねばならない戦いだ」と常々口にしていた。“東洋の魔女”といわれた全日本女子たちにとっては重い十字架を背負っての宿敵ソ連との対決だ。

 61年の欧州遠征で実業団の日紡貝塚が22連勝し、「東洋の台風」「東洋の魔法使い」との異名をつけられ世界的に強さが認められる。翌62年モスクワでの世界選手権では日紡貝塚主体の日本が世界王者のソ連にどこまで迫るかが焦点だったが、セットカウント3-1で勝ち優勝した。

 これは団体競技の世界大会で日本が初めて得た優勝でもあり「東洋の魔女恐るべし」のニュースが世界に走った。この大会を機に大松監督はじめ選手たちは引退する意向だったが、2年後の東京五輪で女子バレーボールが正式種目になることが決定したため「是非東京まで…」と協会幹部が日紡貝塚に日参、一般ファンからも大松監督率いる東洋の魔女続投を望む手紙が5000通も寄せられた。

 これに大松監督が決意。「俺についてこい!」の呼びかけに河西昌枝主将はじめ宮本恵美子、谷田絹子、半田百合子ら日紡貝塚の選手たちが呼応し、再び東洋の魔女軍団が結成されたのだ。それから本番までの2年間“鬼の大松”によるスパルタ練習が繰り返される。リスカルを筆頭としたソ連の強打を防ぐため柔道の受け身のように体を回転させながら球を拾う回転レシーブを考案、転がる選手めがけて容赦なくボールを投げつける大松監督の壮絶な練習が毎日延々と続けられた。

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