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【Tokyo1964秘録】マラソン・円谷幸吉 銅獲得“一瞬の輝き放った”一番評価が低かった男 (2/2ページ)

 アベベが余裕たっぷりに柔軟体操しているとき再びスタンドが総立ちになる。ゼッケンの上に小さな日の丸をつけた円谷が2位で競技場に帰ってきたのだ。日本の代表3人の中では一番評価が低かった男。寺沢は前年世界最高をマークしていたし、君原は常に安定した成績をのこし、日本長距離界のエース的存在だったのに対し、円谷は駅伝やトラックの選手で早々と1万メートルの代表となり、この五輪でも1万メートルで6位に入賞している。マラソンはこの年3月の中日マラソンが初で、4月の五輪選考レースで君原についで2位となり代表となった。

 競技場に巻き起こった歓声はすぐに悲鳴に変わる。すぐ後ろにベイジル・ヒートリーが迫ってきたからだ。勢い、足色がちがった。3コーナー付近で並び、抜かれる。

 「男は後ろを振り向くな」父親の戒めを守り、円谷は愚直なまでに前だけを見て、慌てたり、落胆するそぶりは見せず淡々と走った。当時24歳。あまりに実直な若者だった。それでも3位ながら自己ベストの2時間16分22秒8をマークし、エチオピア、英国と並び国立競技場に初めて日の丸をかかげたのである。

 長丁場のマラソンでは輝いたアベベと円谷だが、人生は短かった。アベベは68年メキシコ五輪(途中棄権)後に交通事故で重傷を負い、その後遺症か73年脳出血で41歳で生涯をとじた。

 円谷は「メキシコで金」を目標に再始動したが、腰の手術、婚約破談、信頼していたコーチとの別れなどつらいことが続き、68年1月「幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません」の遺書を残し、衝撃の自殺。

 同年代の君原は悲しみ「メキシコでは円谷と一緒に走る」と誓いメキシコで銀メダルをとった。

(スポーツジャーナリスト・柏 英樹)

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