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【Tokyo1964秘録】水泳・田中聡子、あと100メートルあったら… (1/3ページ)

 1964東京五輪の日本選手団は選手355人で、そのうち女子はわずか61人だった。男女の数が逆転したのは2004年のアテネ五輪(男子141、女子171人)で直近の2016年のリオ五輪では男子174人、女子164人とほぼ同数となっている。

 64年のころはまだ柔道、レスリング、ソフトボールなどメダル期待の女子種目がなく、女子は個人種目の水泳、陸上選手が多かった。

 その水泳で期待を一身に背負っていたのが女子100メートル背泳ぎの田中聡子(現姓竹宇治、当時22歳、八幡製鉄)だった。60年ローマ五輪100メートル背泳ぎで銅メダル。36年ベルリン五輪200メートル平泳ぎで金メダルに輝いた前畑秀子(当時22歳)に次ぐ2人目の女子競泳メダリストとなっただけでなく、200メートル背泳ぎでは世界新記録を連発していた。

 ただ、不運にも当時の五輪では得意の200メートル背泳ぎは種目になく、正式種目になったのはすでに引退していた次のメキシコ五輪からだった。

 田中を育て上げたのが福岡筑紫女学園-八幡製鉄と指導した同製鉄水泳部コーチの黒佐年明氏だ。

 同コーチの指導法はユニークだった。高校1年のとき体調を崩し、泳げない時期に命じたのがイメージトレーニング。

 「目をつぶって頭の中でこのタイムで泳いでみよう」と当時の200メートルの世界記録のラップを示した。最初の50メートルは36秒、次の50は38秒…。田中聡子は頭の中で手足を動かし、50メートルに達したところでポンと手をたたく。途端にコーチから怒声が飛ぶ。「なんだ、38秒もかかっているぞ」。設定タイムで泳ぐイメージができるまで毎日同じことが繰り返された。

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