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【Tokyo1964秘録】水泳・田中聡子、あと100メートルあったら… (2/3ページ)

 さらにプールに復帰してからはインターバルトレーニングだ。

 「50メートルを42秒で泳いで30秒休憩。それを10本繰り返せ」

 そして次は40秒にペースをあげてまた10本。こうしたトレーニングの効果は表れ、2年生夏の日本選手権200メートルで世界新記録を出したのを皮切りに次々と世界記録を更新。ただ、18歳で挑んだローマ五輪は100メートルしかなく銅。

 そして迎えた東京五輪100メートル背泳ぎ決勝。16歳のファーガソン(米国)とキャロン(フランス)、17歳のデュンケル(米国)といった伸び盛りの若手にピークを過ぎた22歳の田中聡子が挑む。勝ち目は薄かった。「勝敗は気にせず自己ベストで泳ごう」と誓ってスタート台に立った。

 50メートルを折り返してデュンケルが先頭に立つも75メートル過ぎからファーガソン、キャロルが抜け出し、結局ファーガソンが1分7秒7の世界新で優勝、2位キャロル、3位デュンケルで懸命に追い上げた田中はデュンケルに0秒6差及ばず4位。しかしメダルには届かなかったが、自己ベストを0秒8、ローマ五輪3位のときのタイムを実に2秒8も短縮する1分8秒6のベストタイムで泳ぎ切ったのだ。

 水から上がらずしばらく放心状態の聡子に観客は感激の拍手を送るとともに、誰もが「“あと100メートル”あったら…」と歯ぎしりするのだった。

 田中聡子は各国の選手、水泳関係者から尊敬されたことは、五輪の実績では銅メダル1個ながら1991年に国際水泳殿堂入りしたことで証明されている。

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