河埜和正のマネできないエピソード

2009.10.14


鉄砲肩でならした河埜。律義な一面もあった【拡大】

 昭和44年のドラフト会議、6位指名で巨人に入団した河埜和正内野手には、他の選手にはマネのできない2つのエピソードがある。

 1つは、河埜の存在がグラウンドの形態を変えさせてしまったことだ。45年1月、多摩川での合同練習が河埜のデビューだったが、この動きを観察していた須藤豊2軍コーチは目を丸くした。

 普通の遊撃手は土の部分に守備位置を取るのだが、河埜はそれより2歩後ろで捕球体勢に入った。須藤コーチは、試しに強いゴロのノックをしてみた。と、どうだ。深い位置で捕るやいなや、一塁へ矢のような送球。ふつうなら内野安打になるような位置なのに、楽にアウトにしてしまう。

 舌を巻いた須藤コーチが次にやったのがグラウンドいじり。務台三郎グラウンドキーパーと相談し、遊撃の守備位置の後ろだけ芝生を2メートルほど刈ってしまったのである。“多摩川の主”と異名をとったベテランの務台さんも「長いことキーパーをやっているけど、こんなの初めてだね」と驚いていた。2メートル後方からでもアウトにできる“鉄砲肩”の持ち主だということだ。

 河埜は愛媛・八幡浜出身。小学校ではソフトボール、中学校ではバレーボールをやり、県大会で優勝した。たまたま実家の隣に住んでいた八幡浜工高・酒本二郎野球部長から「うちで野球をやらないか」と誘われたのが野球との縁となったが、肩の強さとバネの良さは生まれながら。中学時代に垂直跳びで80センチをマークして周囲を驚かせたこともある。

 ほとんどの巨人の選手が、筆者を「ゾウやん」と愛称で呼ぶのに、河埜だけは「蔵田(くらた)さん」とさん付けで姓を呼ぶ。「“ゾウやん”でいいよ」といったことがあるが、そのときの返事は「年上の人に失礼ですから…」だった。明るい男だが、そんな律義なところがあるのだった。

 ようやくレギュラーの座をつかんだ49年に、こんなことがあった。7月27日の大洋13回戦(川崎)の2回裏2死、大洋は三塁に江尻亮外野手、一塁に松原誠内野手が出塁。打席に4番・シピンというチャンスだった。

 下手投げが苦手のシピンだったため、川上哲治監督は、すかさず投手を関本四十四から小川邦和にリレーした。ところが、カウント1−1からの3球目をシピンがジャストミート。一瞬青ざめた三塁側巨人ベンチだったが、よく見ると白球は河埜のグラブに収まっているではないか! 結局この試合、巨人が11−6で快勝したが、誰もが「ヒットだ」と思ったシピンの打球が外野で弾んでいたら、その後の展開はどうなっていたことやら…。

 「あの守備でオレは遊撃手としてメシが食っていけるという自信が生まれたんです。反射的にジャンプしたんですけど、捕球の瞬間は捕れているかどうか、わかりませんでした」。後日、このファインプレーに関して河埜は、こう振り返ったものだ。

 褒めたあとは、けなすことにしよう。これは現役晩年の60年のできごとである。開幕5試合目の4月6日の阪神戦(甲子園)、巨人が2−1とリードして迎えた4回2死一塁の守り。阪神・佐野が打ち上げたイージーフライ。巨人選手が守備位置からベンチに戻ろうとしたとき、河埜のグラブからボールがポロリと落ちた。「抑えた!」と思ったマウンド上の加藤初投手のショックは計り知れない。その直後、阪神打線のつるべ打ちにあい、結局この回7失点。当然、負けてしまった。

 さらに、それから2週間もたたない4月28日のヤクルト戦(神宮)で、再び同じポロリをやってしまったのである。王監督から2軍落ちを告げられた河埜は、うなだれて球場を後にした。

 この年オフの契約交渉、河埜は2660万円から20%ダウンの2130万円での契約を言い渡され、グウの音も出ずに印鑑を押した。ダウン額は530万円。「落球1つで265万円か…」と、河埜は苦笑いしていた。

 ■蔵田紘(くらた・ひろし) 昭和15年、東京・渋谷に生まれる。サンケイスポーツ発刊直前の38年1月に産経新聞社入社。サンケイスポーツ、夕刊フジで主に野球、競馬記者として活躍した。現在、スポーツライターとしてフリーで活動している。

 

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