西鉄ライオンズ 魔術師と野武士たちの寸劇

2010.10.18

連載:球談徒然

  • イザ!ブックマーク
  • はてなブックマーク
  • livedoorクリップ
  • Yahoo!ブックマークに登録

 人々は監督を「魔術師」と呼び、個性豊かな選手たちを「野武士」になぞらえた。かつて九州に栄華を築いた伝説の球団、西鉄ライオンズである。

 その野武士のひとりに稲尾和久(故人)がいた。彼が評論家時代に春のキャンプ巡りでよく一緒になった。夕方から酒が入ると、決まってあの話が出た。「神様、仏様、稲尾様」。彼はこともなげにこう言ったものだ。

 「投げ過ぎとか酷使だとか、よく言われたけど、投げるのが楽しくてね。投げれば投げるほど給料が上がるんだもの」

 プロ入りした1956年、21勝6敗で最優秀新人賞。2年目は68試合に登板、373回2/3投げて35勝6敗、次の年は72試合373回で33勝10敗。57、58年には最優秀選手に選ばれ、入団から8年連続で20勝以上をマークするなど、マウンドにはいつも稲尾がいた。

 監督の三原脩は術策にたけた指揮官として知られる。南海に猛追された58年、ペナントレースの後半にこんな寸劇があったそうだ。

 試合前、前日投げた稲尾に三原が何気なく問いかけた。「サイちゃん、今日はどこで見る?」。稲尾の目が細いことから誰もがサイと呼んだ。

 「カメラマン席かどこかで見ます」

 「そう、じゃあベンチで見てもいっしょだ」

 終盤、試合がもつれてくる。ベンチをうろついていた三原が稲尾の後ろにあるブルペンへの連絡電話をつかんだ。

 「ピッチャー、誰かいないか。そうか…、困ったな」

 このやり取りを耳にして稲尾は、じっとしていられない。ブルペンに行くと、コーチの川崎徳次が言った。「サイ、どうした。オヤジに言われてきたのか」。アレッ、話が合わない! あの電話は監督のひとり芝居だったのか。

 この年、西鉄は巨人と日本シリーズを戦った。1勝3敗と追い詰められた第5戦(平和台)、西鉄は西村貞朗を先発させたが、1回表にいきなり3点を失う。三原は4回から3連投の稲尾へつないだ。1点リードされて迎えた9回、三原の行動が面白い。先頭の小淵泰輔が三塁線を破る二塁打した(代走・滝内弥瑞生)。ここで3番の闘将・豊田泰光。本来は2番だが大下弘の不振で3番を打っていた。

 三塁コーチスボックスの三原が歩み寄ってきて「トヨ、打て!」と大声で叫んだ。豊田は驚いた。「エッ、ここはバントでしょうが!」。それでも、そのうちサインが出るだろうと豊田はじっと待っていた。しばらくすると三原の右の手のひらが胸を触った。

 指が立てば「打て」、丸を意味する動作だと「バント」、手のひらが体のどこかに触れると「任せる」のサイン。豊田は初球を絶妙に三塁前に転がした。

 稲尾はこう読む。「あの『打て』はオヤジの謎かけだよ。トヨさんは普段から安易な妥協を嫌う人。このシリーズは当たりに当たっていた(前の打席まで14打数7安打6打点4本塁打)。その男にバントを命じてはと、トヨさんの性格を見抜いて逆手を取ったんだ」。豊田は苦笑いする。「サイは講演用に話を面白くしゃべるんだよ」

 勝負の続きは、2死から関口清次が同点打、延長10回、稲尾のサヨナラ本塁打で勝った。西鉄は6、7戦も稲尾で勝ってついに日本一に輝いた。

 三原は優れた情報収集と洞察力の持ち主だった。魔術師が自在に術をかけ、野武士たちは奔放に踊ったのである。 

 ■岡田 忠(おかだ・ちゅう) スポーツジャーナリスト。1936年、広島県生まれ。加計高、立命大文学部卒業。高校、大学では野球部で投手。朝日新聞社では運動部畑を歩き、東京本社編集委員を経て、96年に定年退職し現職。コラム執筆やアマ野球のテレビ解説、講演で活動。著書に『観戦論。』(海拓舎)『フェアウエー財界紳士録』(中経出版)『ニッポン五輪メダルプロジェクト』(朝日新書)など。『スポーツの百科事典』(丸善)で執筆・編集担当。

 

注目情報(PR)