大洋入団決意、女優との交際…平松政次のすべて

2011.02.07


1967年(昭和42年)8月20日、仙台でのサンケイ戦でプロ初勝利を挙げて笑顔の平松。右は筆者【拡大】

 初めて会ったのは1965年(昭和40年)3月27日、第37回センバツ大会の開会式だった。

 当時、アマ野球担当でいろいろなデータから岡山東商を優勝候補の筆頭に挙げていた身としては何としてもエース・平松政次の顔を見ておく必要があったのである。

 当日は小雪の舞う寒い日だったが、目的の男、平松はさして寒そうな素振りも見せず、端正な顔でチームの輪の中にいた。

 大会が始まると、今でも大会記録として残る39イニング無失点の快投で優勝した。夏も出場したが、1回戦の日大二(東京)に、降雨ノーゲームで再戦の末0−4で敗れ、彼の高校野球は終わった。

 “巨人命”だった彼は、中日のドラフト4位指名を拒否して社会人野球の日本石油(現新日本石油ENEOS)に入社した。川崎市等々力の合宿所に入ってからは、頻繁に訪ねていった。

 開通して間もなかった第三京浜をドライブしたり、9月22日の彼の誕生日には、当時私の住んでいた鎌倉の自宅に招いて女房とパーティーを行ったりもした。

 社会人1年目の都市対抗は準決勝で敗れたが、11月24日から台湾へ遠征。私も特派員として同行。台北、高雄、台南、台中と転戦。帰途に返還前の沖縄に寄って帰国と、楽しい15日間を過ごした。

 翌67年(昭和42年)の都市対抗では見事に優勝。最高殊勲選手賞にあたる橋戸賞を獲得した。しかし、大会は雨天順延が続いたため、優勝の2日後が、前年ドラフト2位で指名された大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)との交渉期限日。後楽園から合宿所へ帰るバスの最後部座席に潜り込み、4列前に座っている平松に「入るか?」とのメモを渡すと「入る」との返事。早速会社へ「平松入団決意」の一報を入れた。プロ入りしてからの活躍はご存じの通り。

 67年(昭和42年)8月16日、川崎球場での広島戦に予告先発。普段は6000人くらいしか入らない広島戦に何と1万2000人もの観衆が入場したほどであった。

 初勝利は中3日で2度目の登板となった仙台でのサンケイ(現ヤクルト)戦。被安打4、無四球での見事な完封勝ちだった。

 100勝、150勝はともに札幌円山球場での中日戦。200勝こそ雨中の後楽園での巨人戦だったが、プロ最後の勝利は84年(昭和59年)6月24日、長野でのヤクルト戦とあって、我々は“ドサキング”と陰口を言ったものである。

 横浜市戸塚区元大橋に一戸建を買って岡山から母・ますゑさんを呼んで生活。その後、根岸の元競馬場の近く、三ツ沢上町と転居したが、そのいずれにも女房、子供を連れて遊びに行っている。

 もちろん、76年(昭和51年)秋の大上洋子さんとの結婚式には出席させてもらったし、私の娘の結婚式ではスピーチまでしてもらった。今ではシングルプレーヤーの彼だが、葉山国際カントリーなどでゴルフの手ほどきをしたのも私である。女優の梓英子さんと付き合っていたのも知っているが、記事にはしなかった。

 そんなこんながあって46年。これからも命ある限り、いい付き合いをしていきたいと思っている。今後の平松さんに望むことは、もう1度ユニホームを着ることと、野球殿堂に入ることである。是非、夢をかなえてほしいと思っている。

 ■佐伯 松次朗(さえき・まつじろう) 1938年(昭和13年)12月生まれ。神奈川県立鎌倉高校3年時には二塁手として夏の神奈川大会でベスト8に進出。日本体育大学を卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社。運動部、整理部、校閲部次長などを経て95年に定年退職。

 

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