日米野球で“外国人担当”が会心の移籍スクープ

2011.04.19


ディック・スチュワートは大洋でプレーした【拡大】

 巨人が王、長嶋を中心に黄金時代の基礎作りを始めたころ、わが社(デイリースポーツ)に鈴川決という遊軍記者がいた。英語が堪能で遊軍というより、外国人選手担当といった方が適切かも。それだけに、2年に1度開催される日米対抗戦には欠かせない存在だった。

 巨人が日本シリーズ2連覇を果たした昭和41年秋、ドジャースを迎えての対抗戦が行われた。巨人軍単独試合以外でも、大半の試合が巨人ナイン主体のチーム編成だっただけに、当時巨人担当だった私が鈴川記者とともに、全試合を取材することになった。

 そして迎えた11月8日、岡山での巨人・南海連合軍との試合後だった。先に仕事を終えてネット裏で待っていた私の前に姿を見せた鈴川記者は、隣の椅子に座るなり「試合前、坂本さん(巨人軍広報担当)と鶴岡さん(南海監督、故人)がディック・スチュアートと人目を避けるように話し合っていた。あれ、日本に来る意思があるかどうか、打診していたんだ。アキさん、坂本さんをつっついてよ」と、周囲を気にしながら小声で言う。その声にはいつになく力が入っていた。

 その夜、翌日のゲーム地・広島に着いてすぐ、私は巨人宿舎で坂本氏を問い詰めた。だが「あれは大リーグ事情をいろいろ聞いていたんだ」とつれない返事。いくら粘ってみても、それ以上の答えは返ってこなかった。しかも翌日、広島での試合直後に顔を合わせた坂本氏は、機先を制するように「今夜は忙しいから」と冷たく言い放った。これでは私も諦めるしかなかった。

 ところが翌10日、次のゲーム地・熊本に移動するために巨人ナインとともに列車に乗り込んで1時間ぐらいたったころ、座席でたばこを吸っていた私が、何気なくデッキの方を見ると、ドア越しに坂本氏がしきりに手招きしている。思わず自分の顔を指差すと、坂本氏はコックリ。慌ててデッキに出ると、私を洗面所の中に引き込み、「スチュアートの話な、あれアキさんの言う通りだよ。彼も色気たっぷりだったよ」と言うと、ポンと私の肩をたたいて引き揚げていった。

 書いてもいいよ−ということである。さっそく鈴川記者に伝えると、それまでのさえない表情がみるみる紅潮。「スチュアートに確認します。その上で書かせてもらいます」と勢い込んで言った。その夜、同記者が健筆をふるったことはいうまでもない。

 翌朝、私よりひと足先に出て、ドジャースの宿舎をのぞいてから球場入りした鈴川記者は「きょうの午後、南海のスカウトがスチュアートに会いに来るってんで、各社の記者が集まってワイワイやってましたよ」と最高の笑顔で報告してくれた。

 結果的にスチュアートは南海ではなく、後から手を挙げた大洋に入団したが、同記者にとっては会心の一打だった。

 鈴川記者はその後、退社して拠点を米国に移しフリーライターとして活躍していたことは聞いていたが、私が定年で現場を離れてからは、その後の同記者の情報は耳にすることはなく、いつしか忘れていた。

 4年ほど前、プロ野球記者OB会の席で同記者が亡くなったことを知らされ、驚きと同時に、あの日米対抗戦での出来事が頭をよぎった。あの人懐っこい笑顔をもう見られないのは残念でならない。

 ■秋村 純夫(あきむら・すみお) 昭和31年、法政大卒業後、埼玉新聞社に入社。36年、東京スポーツに移り、巨人担当になる。39年、デイリースポーツに移籍。引き続き巨人を担当する。栄光の9連覇を見届け、49年から大洋担当。その後、内勤、日本ハム、横浜、ロッテなどを担当して平成5年9月に定年退職。

 

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