誠意はお金だった…「自由競争」最後の年

2011.05.31


慶大で東京六大学史上初の完全試合を達成したこともある渡辺【拡大】

 1964年(昭和39年)といえば東京五輪の年である。プロ野球にとっては新人獲得、最後の自由競争の年でもあった。契約金の高騰に球界が音を上げ、ようやく自らドラフト制という制度をつくり、翌年から施行することを決めていた。野球記者にはなんでもあり、の自由競争は血沸き肉躍る取材でもあった。

 この年に日刊スポーツ社に入社した私は辛うじてその合戦に間にあった。もっとも前線の後ろの方でウロチョロしていたに過ぎない。夏から秋にかけ、逸材はどんどん行く先が決まっていった。池永正明(下関商−西鉄)菱川章(倉敷工−中日)らの面々だ。そういえばゴルフの尾崎将司(徳島・海南−西鉄)がプロ野球入りしたのもこの年である。

 五輪取材のお手伝いから戻った記者が参戦したのは、まだ獲得合戦継続中で超高校級といわれた上尾高の山崎裕之内野手と六大学史上初の完全試合を達成した慶大の渡辺泰輔投手だった。

 山崎は聖火リレーの走者に選ばれ、交渉は五輪終了後になったためだ。連日上尾市内で商店を営んでいた実家を訪ねた。学校帰りの本人には何度か会ったが「父親にすべて任せています」とにこやかに答えるだけである。

 その父親がある意味で正直な人だった。入団先を決める一番の理由を聞かれて「誠意」と答えた。重ねて「誠意はなんで計るのか」と問われて「お金です」といった。この発言、私は直接聞いていないが多くの取材陣の前だったので、大きな話題になった。

 あらゆる交渉事で最後にものをいうのはお金である。この父親、きれいごとでごまかすことがいやだったのだろう。至言といっていい。

 獲得合戦も取材合戦も隠密行動をとり、記者が深夜に空振りの張り込みから社に戻ったら「山崎、東京オリオンズ入り」の紙面ができていたのには驚いた。

 渡辺は福岡の素封家の生まれで、慶大の日吉グラウンドに近い丘の上の一軒家に住んでいた。山崎家もそうだったが、このころになって報道陣が待つ自宅に話し合いにくる球団関係者はいなかった。

 それを知らない記者は訪れる人に神経をとがらせていた。昼前に家に張り付いて間もなく、背広姿の2人が出てきた。「あのう」と声をかけるとどんどん逃げるように丘の下に急ぐ。車のところでやっと追いつく。こっちの必死の顔つきに同情したのだろう。怪しいものではありませんと出した名刺は大手都市銀行の支店長代理。近く契約金が入るとみて、お願いにきたらしい。

 渡辺はしばらくあと、南海入りが決まった。もちろん、新米記者のあずかり知らないところで記事はできあがっていた。契約金は山崎とそう変わらず、5000万円以上と推定された。いまでいえば、6億円をゆうに超えているだろう。銀行も狙うわけである。

 翌年のドラフト制度では契約金の上限が1000万円になった。球団の経営もずいぶん楽になったはずだ。それが、40年もたつと忘れられ、一部の有望選手に10億円以上の札束が舞うようになり、やっと昨年、歯止めがかかった。プロ野球は運命共同体である。一部の金持ち球団のカネにあかせてのチーム強化が破局にもつながることにいい加減気付いてほしいものだ。

 この年の新人、池永をはじめなんとなく不幸を背負っている選手が多い気がしていた。でも山崎は実働20年、2000本安打も達成し、還暦をとっくに過ぎた今もラジオの解説で元気な声を聞く。

 渡辺は2年目から2年間15勝以上を続けたが故障のため引退が早かった。父親のあとをうけて実業家になっていると風の便りに聞いていた。3年前だか母校慶応高が彼のエース以来の選抜出場をはたしたとき、甲子園のアルプス席でインタビューを受けている野性味のある顔が懐かしかった。

 ■富永 草二(とみなが・そうじ) 1941年、東京生まれ。64年に日刊スポーツ入社。アマ野球、プロ野球を担当。V9巨人の2、3連覇を見守った。69年に朝日新聞社に入社し、大阪、東京で春夏の高校野球や阪神、巨人担当などを務める。江川問題、各球団の監督人事やドラフトなど取材に走り回る。97年から主催者として全国高校野球選手権大会の運営にも携わった。

 

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