吉永小百合さんとの思い出 たまには“役得”があっても…

2011.06.14


吉永さんと筆者の2ショット【拡大】

 プロ野球の日本一を決めるのが日本シリーズ。1986年(昭和61年)のシリーズは広島−西武の対決。第1戦は10月18日、広島市の広島市民球場で開幕。試合は広島・北別府、西武・東尾両エースの投げ合い。広島が2点ビハインドで迎えた9回1死から、小早川、山本浩の連続本塁打で追いつき、延長14回、引き分けとなった。

 その前夜のこと。デスクから声がかかった。アマ野球担当だったが、当時の運動部は担当種目に関係なく“相互乗り入れ”が日常茶飯事。

 「あすの西武への応援メッセージは吉永小百合さんにお願いした。あす、撮影所に行ってくれ」

 「えっ、吉永さんて、あの吉永小百合さんですか?」

 「そうだ。デーゲームだし、企画ものなんだから原稿は早めにな」

 なんと、あの「キューポラのある街」や「青い山脈」「伊豆の踊子」「光る海」など、銀幕でしか見ることができなかった小百合さんと直接話ができるのだ。まさに天にも昇る思い−。その瞬間、鬼デスクの顔が仏に見えたものだった。

 翌日、いざ鎌倉ではないが、大張り切りで会社から車で世田谷の東宝砧撮影所へ。その車中、後輩のカメラマンに声をかけた。

 「実は頼みがあるんだ。吉永さんとのツーショットを撮ってくれないか」

 「いいですよ。俺もファンなんです。まかせてください」

 当時、吉永さんは2カ月余に迫った正月封切りの田中絹代さんの半生を描いた「映画女優」の撮影の真っ最中。約束は昼過ぎだったが、1時間以上も前に現場到着。そして試合開始直前の午後1時前、待望のご対面となった。

 ポケットラジオで試合経過をチェック。一喜一憂しながらスタジオからメーキャップ室、そして再びスタジオへ。吉永さんの話を手短かに整理すると、幼い頃から巨人ファンだったが、江川投手の入団を巡り、巨人はみんなで決めたルールを守ろうとする意思に欠け、潔さが見られなかったことで失望。西武のファンになったという。中でも若き主砲の清原に期待しているというものだった。

 「きょうは50歳のメーキャップなんです。写真を(紙面に)載せていただくのなら、もっと若い時代の設定のときにお願いしたかったわ。清原選手に(新聞を)見られたら恥ずかしいわ」と、乙女のような恥じらいを浮かべて話す姿が印象的だった。

 約1時間半の取材を終え、帰途につこうとしたところ、後輩のカメラマンがやや興奮気味に声をかけてきた。

 「最高です。恋人同士みたいに、いい雰囲気で撮れましたよ」

 「よっしゃ! ちょっと遅くなったけど、昼飯はステーキでもなんでもごちそうするぞ!」

 聡明な語り口。連日、深夜まで撮影が続く中でも気さくにメーキャップ室まで入れてくださった気づかい。それまでコマキスト(栗原小巻のファン)だったが、この日を境にすっかりサユリストになってしまいました。

 入社当時、キャンディーズに会いたくて芸能担当を希望したところ、上司の「お前には(芸能界は)向かん」の一言で却下されて以来、野球と大相撲という“男の汗”にまみれた記者生活。皆さん、たまにはこういう“役得”があってもいいでしょう。

 ■龍川 裕(りゅうかわ・ゆたか) 福島県会津若松市生まれ、59歳。中学時代からとんと勉強とは無縁の生活で、ひたすら白球を追う毎日。会津高では早大OBの渋川博監督(故人)の特訓に耐えて、右翼手で8番打者。法大を経て1975年にスポーツニッポン新聞社入社。大相撲、アマ野球、プロ野球を担当。郷里の福島支局長も務めた。東京相撲記者クラブ会友。東京運動記者クラブ会友。

 

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