「空白の一日」に見た“嵐を呼ぶ男”の気配り

2011.06.21

 「長谷川です。よろしく」−。小柄だが、骨太の体。メガネの奥の柔和な目。くったくない笑顔。これが昭和50年、巨人・長谷川実雄との初対面の印象だった。

 昭和46年から巨人入りするまで、親会社・読売新聞社の編集局長だったという大物。一説には長谷川の巨人入り、読売が主催してきた将棋の名人戦を朝日新聞に持っていかれた責任を取らされての左遷ともいわれた。だが、読売に入社以降、一度も番記者経験なし。幹部候補生としての英才教育を受けてきたその足跡をみても、実力のほどが分かろうというものだ。

 ところが、どうだ。彼が行くところ、常に騒ぎが巻き起こる。50年6月17日、専務取締役の佐々木金之助代表が死去したことがその始まりだった。同月26日に開かれた株主総会で専務取締役代表に就任した。このとき、チームはルーキー監督の長嶋茂雄の采配にも踊らず、悪戦苦闘。新球団代表へのはなむけどころか、球団初のリーグ最下位という屈辱を味わった。

 53年にはあの江川事件でプロ野球界どころか、日本中が蜂の巣を突いたような騒ぎになった。そして55年の長嶋監督解任騒動…。V9黄金期が去った後の、チームが激動で揺れた混迷期の代表だった。

 さまざまなニュースの発信源だから、番記者としては放っておけない。連日の夜討ち朝駆けだ。東京都世田谷区代沢の閑静な住宅街。袋小路の一番奥が長谷川邸である。

 騒動の中でも一番緊張したのは、江川事件。ひとつ間違えれば日本プロ野球機構分解の危機を孕んでいた。前年ドラフトで交渉権はクラウンライター(翌年から西武ライオンズ)が獲得したが、江川は入団拒否して米国に野球留学。勝負はこの年のドラフトに持ち越された。

 長谷川が目に留めたのは、野球協約第138条(交渉権の喪失と再選択)「球団が選択した選手と翌年の選択会議開催前々日までに選手契約を締結し、支配下選手の公示をすることができなかった場合、球団はその選手に対する交渉権を喪失するとともに、以後の選択会議で再びその選手を指名することはできない(後略)」。

 ドラフトの前々日までに獲得の公示ができなければ、西武の交渉権は消滅する。ならば、江川がフリーとなったドラフト開催前日に契約を交わす作戦はどうだ。代表は野球協約上の「空白の1日」を見つけると、行動は素早かった。読売新聞社・務台光雄社長の了解を取り、顧問弁護士のお墨付きももらった。そして、セ・リーグの鈴木龍二会長にも実行を匂わせたのだ。

 「君、もしウチがプロ野球機構を脱退したら、この指止まれに何球団がついてくるかね」

 「いざとなったらやるぞ。見ていろよ」

 台風の目はそれを楽しんでいるようだった。

 ある日の夕方、長谷川ほか3人が乗った車を大手町の読売新聞社からマークした。向かった先は長谷川の自宅。同乗の3人は長谷川にとってかつての部下にあたる読売新聞社編集局の部長たちだった。

 「さて、どうしたものか?」。聞きたいネタがあるため、無粋とは承知しつつも玄関のベルを押した。出てきた代表は「ちょうどいい、上がりたまえ」。意外にも部外者の筆者を応接間に通してくれたのである。

 「君らの部下たちの仕事ぶりはどうだ。僕は巨人に来て知ったのだが、スポーツ新聞の記者の働きはすごいぞ」。これには照れたが、これだけではない。応接間は道路に面した位置にあったのだが、「君、ほかの社が来るとまずいから、電気を消しておこう」などと、気配りには頭が下がるばかりだった。

 平成10年5月9日、肺炎のため自宅で死去。嵐を呼ぶ男は90歳の生涯だった。

 ■蔵田 紘(くらた・ひろし) 昭和15年、東京・渋谷に生まれる。サンケイスポーツ発刊直前の38年に産経新聞社入社。サンケイスポーツ、夕刊フジで主に野球、競馬記者として活躍した。現在、スポーツライターとしてフリーで活動している。

 

注目情報(PR)