表も裏も世話になった“心の親父”元西武監督の根本陸夫さん

2011.06.30


根本陸夫さん。写真は平成6年ダイエー監督時代【拡大】

 6月の第2日曜日は「父の日」。3歳の時に父親を病気で亡くし、母親に女手一つで育てられたボクにとって、ある意味、特別な日でもあります。ただ、血のつながりはなくても、ボクが心の中で“父親”だと思っている2人の人物がいます。元西武監督の根本陸夫さんと元巨人監督の藤田元司さん(ともに故人)。今回は生前、ボクが「おやじ」と慕った根本さんとの思い出をお話しします。

 ボクが初めておやじと会ったのは、水戸商高3年だった1984年12月。西武からドラフト1位で指名されたボクは契約の際、池袋のサンシャイン60の中にあった西武の球団事務所で、おやじと対面しました。広島、クラウンライターの監督を歴任し、79年から3年間、西武の初代監督を務めたおやじは、当時球団の管理部長。

 「よろしくお願いします」と頭を下げたボクに対し、おやじは「一生懸命やれ」と、たった一言。とても球界の人とは思えない鋭い眼光に、ボクは「なんだ、この人は…」とゾクッとしたものです。

 ただ、茨城県東海村出身のおやじは、隣町の大洗町育ちのボクに対し、入団当初から何かと面倒をみてくれました。「オレのことを『おやじ』と呼んでいいぞ」「プロ野球選手はたくさんの契約金をもらうけど、サラリーマンが定年するまでにもらう給料を先にもらうだけだ。今、使っちゃだめだぞ」と声をかけてくれたことをよく覚えています。結局、4500万円の契約金は、母親がお世話になった人たちへのお礼などに使い切り、あっという間になくなりましたが…。

 大正15年生まれのおやじは、現在では少なくなった根っから義理人情を大事にするタイプ。亡くなったあとに聞いた話ですが「背広組の代わりはいくらでもいる。ユニホーム組の代わりはいない。選手は絶対に守る」が信条だったといいます。いわゆる“裏の世界”にも通じており、ボクが現役時代にも、今では信じられない逸話が限りなくあります。

 ボクがプロ3年目のこと。球団寮に女を引っ張り込み、その女とモメた選手がいたのです。おやじは寮生全員に集合をかけ、こう言いました。「たいがいのモメ事は話をつけてやる。でもな、女を抱きたいなら×××風呂へ行ってこい!」。球団を管理する最高責任者が、ソープランド通いを堂々と奨励するなんて、今では考えられないでしょう。

 あるとき、ボクに近づいてきて、何を言い出すかと思えば「きのう、六本木で飲んだだろ」。これは、次回以降にお話ししますが、ドラフト戦略で抜群の手腕を発揮し、各方面に驚異の情報網を張り巡らせていたといわれるおやじは、選手の行動やよく行きそうな飲食店は、ほとんど把握していたようです。

 ある選手が門限を破り、飲みに行ったスナックで暴力団員といざこざを起こしたときも、選手が先に手を出さなかったとわかれば、次の日には何事もなかったように解決していました。マスコミに漏れることなく、選手もおとがめなし。今なら、すぐ表沙汰になり、その選手は即クビです。

 ボクが悩んでいるなとおやじの目に映れば、おやじは所沢市内の自宅に呼び寄せ、何も言わずに食事を出してくれるのです。奥さんの手料理は、必ず牛乳で煮込む特製のすき焼き。おなかいっぱい食べることで、気が晴れたものです。

 そんなおやじが、ボクの人生までも大きく変えてくれました。プロ6年目、ボクは当時の森祇晶監督の下、完全に1軍での出番を奪われ、2軍で悶々とした日々を過ごしていました。やれる自信はある。実際に結果も残していました。その気持ちをぶつけるため、おやじに思いのままをぶつけました。

 「森監督は何でボクを使ってくれないんですか。どう我慢しろっていうんですか。よそでやらせてください」。トレード志願です。そうしたら、おやじは怒ったのなんの。「ガキのくせに、わがまま言ってるんじゃねえ。一社員の言うことをいちいち聞いてたら、会社は仕事にならないんだ。帰れ!」

 そう言いながらも、おやじはボクの今後のことを考えていてくれたのでしょう。プロ7年目のある日、球団事務所に呼ばれて行くと…。巨人へのトレード通告。それまで、一度たりともボクをほめたことがなかったおやじが「オマエ、森の下でよく耐えたな」と言ってくれたのです。

 おやじは、当時西武グループで絶対的な権威を誇っていた堤義明オーナーに直談判して、ボクのトレードを了承してもらったのです。あとで聞けば、堤オーナーは「石毛(宏典)、清原(和博)、大久保の3人だけは西武から出すな」と言っていたそうです。それを説き伏せ、しかも移籍先はボクが子供のころから大ファンだった巨人。さらにこんな言葉も添えて送り出してくれました。

 「オマエは西武の人間だ。巨人でダメなら西武に帰ってこい。安心して行ってこい」

 1992年シーズン途中に巨人に移籍し、キャリアでは自己最高の15本塁打を放つ活躍ができたのも、「帰る場所がある」という安心感から思い切ってできたからこそ。おやじには感謝してもしきれません。

 今、ボクの自宅の神棚には、一つのゴルフボールが供えてあります。「R・NEMOTO」のネーム入り。1999年、72歳で亡くなったおやじが使っていたボールです。父の日には、そっと手を合わせました。

 ■大久保 博元(おおくぼ・ひろもと) 1967年2月1日、茨城県大洗町生まれ。水戸商高から豪打の捕手として84年にドラフト1位で西武入り。92年にトレードで巨人へ。「デーブ」の愛称で親しまれ、95年に引退するまで、通算303試合出場、41本塁打。2008年に打撃コーチとして西武に復帰。現在は東京・新宿区の自宅で野球塾「デーブ・ベースボールアカデミー(DBA)」を開校。DBAは生徒募集中、問い合わせは(電)03・5982・7322まで。

 

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