大沢親分の「奇策」で面目丸つぶれ

2011.07.05


1982年、西武とのプレーオフでは日本ハムの工藤の先発をめぐり、大沢監督に、してやられた【拡大】

 1982(昭和57)年10月9日、西武球場。パ・リーグのプレーオフ「西武対日本ハム」第1戦。〈日本ハム、工藤、西武、高橋直〉。記者席で先発投手発表を耳にした瞬間、頭の中が真っ白になった。

 1カ月前、自宅ドアノブで右手小指付け根を骨折して登板不能のはずだった工藤が投げる。(そんなバカな!)。球史に残る奇策といわれる日本ハム・大沢啓二監督一世一代の大芝居によって、番記者としての面目は丸つぶれだ。

 「アノ、あの工藤が…」。本社デスクに一報すると沈黙の後、電話は一方的に切られた。あれから30年。確かめておきたかったことがある。しかし、大沢さんが昨年旅立たれ機会を逸した。それだけに、奇策に敬意を表しながら恥を忍んで書かせていただく。わが特落ち余聞である。

 プレーオフ直前練習が行われた後楽園球場だった。いつになく早々とグラウンド入りすると、思わぬ方向から耳を疑うような風聞が漏れてきた。

 〈工藤がタオルで頬かぶりしてユニホーム姿でブルペンから出てきたらしい〉。しかも、〈某紙が写真を押さえた〉と尾ひれもついている。(抜かれたら大変なことになる)

 実は気になることが重なっていた。大沢さんは会見で、「痛えよ。20勝エース、西武には6勝もしてるんだぜ」。ギプスをはめた工藤を横にぼやき節をひとくさり。そして、「しゃーんめえ」と締めくくった。執着心の強い大沢さんにしてはいつになくあっさりしていた。

 その後1カ月。工藤は大阪などの遠征に帯同しながらも取材を避けるし、自宅を訪ねても不在が続いた。医者の周辺も、煙幕でも張ったようにつかみどころがない。

 そこへ、まさかまさかの風聞である。必死でブルペン捕手やスタッフ、球場関係者まで手当たり次第に取材して回った。もちろん、何も出てこない。

 特落ちが心配でその夜一睡もできぬまま翌朝を迎える。幸い、某紙はじめライバル紙にはスクープ記事は躍っていなかった。ガセか? ともあれ疑心暗鬼の1カ月からは解放される。その時、誰が、間もなく起こるどんでん返しなど予想しただろう。

 大沢さんは語っている。

 「医者に聞いたら10日程度で治るという。第1戦先発は工藤。その時点で決めたよ。知っていたのはコーチや何人かだけ。チームに話したのも、その日の朝だった」

 思えば大沢さんは1度として「工藤は投げさせない」とはコメントしていない。そして、全治と報道された4週間目にマウンドに復活させた。お見事な筋書きである。

 大沢さんの異名は親分。番記者にも身内のように情をかけてくれた。策を弄されるなど思いもしなかった。

 しかし、奇策は永遠に語り継がれる一戦を私の取材歴に記してくれた。勝負師大沢さんの執念と不人気のパ・リーグを盛り上げようという熱意があったればこそ、工藤は痛みをこらえて投げ抜き、チームも一丸となれたのだ。

 当初の悔恨はいつしか感動となり、年を重ねるほどにかけがえのないものになっていく。

 記者冥利に尽きる。

 ■齋藤 柳光(さいとう・りゅうみつ) 日刊スポーツ記者として江川入団騒動、大沢日本ハム初V、吉田阪神日本一とビッグニュースを取材した。その後、20年余り他部門を回り再び復帰、折しも球界スト取材でコミッショナー担当となる。通算8年余の野球担当ながら常に球史に残るニュースに直面し続けた。現在、団体役員などの傍らスポーツの枠を超え著作、講演活動に携わっている。

 

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