実家は福島原発エリア「こんな悲劇ってありますか」

2011.08.03


先週の男子ゴルフ、サン・クロレラ・クラシックで久保谷(左)のキャディーを務める中居さん=北海道・小樽CC【拡大】

 悪夢の東日本大震災で自身の“原点”ともいえる故郷を失った。プロ野球引退後、キャディーとしてプロゴルフの世界に身を投じた中居謹蔵さん(49)は現在、プレーヤーを支える脇役ながら、トッププロから厚い信頼を得ている。誕生から高校卒業までを過ごした実家は、福島第1、第2原子力発電所の中間地点に位置する。運命を呪いながらも、第二の人生で輝き続けるプロフェッショナルだ。(聞き手・吉川達郎)

 【悪夢の日】

 僕の実家は福島県双葉郡富岡町にありました。ありました、というのは、3月11日の大津波で被災し、見る影もないからです。津波だけではありません。ご存じの通り、今でも放射能汚染の恐怖にさらされています。

 生まれ育った故郷は第1原発と第2原発の中間地点。日本の国土は広いのに、こんな悲劇ってありますか。当然、半径20キロ以内の立ち入り禁止エリアなワケで、帰ろうにも帰れない。実家に一人で住んでいた82歳のお袋の命が無事だったことだけが、せめてもの救いでした。

 実家は海から2キロの位置にありました。海岸からなだらかな地形が続いているため、津波が襲ってきたんです。姉夫婦が実家にほど近い高台に住んでいて、義理の兄貴が地震の直後、機転を利かせてすぐに車でお袋を迎えに行ったんです。義兄の判断がなければ、お袋は津波にのまれて死んでいたでしょう。

 あの日、僕は仕事で愛知県内のゴルフ場にいました。地震の直後、クラブハウスのテレビで恐ろしい映像を目にし、何度もお袋に電話をかけました。携帯、公衆電話、メールもすべてダメ。交通網も寸断されていて、故郷に近づくこともできない。2日後、義兄から電話が来て、お袋ら家族の無事を知らされるまで、夜も寝られなかったんです。

 高校(小高工高)は富岡町から常磐線で30分ほど北上した小高町(現南相馬市小高区)にありました。通学の往復で車窓から眺めた美しい海岸線などの風景は、すべて荒野と化してしまったそうです。故郷を持つ人なら分かるでしょう。この悔しさ、無念が…。家族は今、いわき市内で間借り生活をしています。今でも闘いは続いているんです。

 【思い出も喪失】

 津波に襲われた実家には、僕の宝物がありました。プロ4年目、22歳で手にした初勝利のウイニングボールです。1983年4月23日、相手は日本ハム。場所は仙台・宮城球場でした。あのときの興奮・感激は生涯忘れることはできません。

 登板前日、チームは仙台に飛行機で移動しました。当時は羽田−仙台線が就航していたんです。ところが、仙台上空まで来たのに、濃霧の影響で着陸許可が出なかった。そのまま羽田に舞い戻り、今度は新幹線移動で仙台に向かったんです。

 当初、先発予定はベテランの仁科(時成、プロ通算110勝)さんでした。でも、強行スケジュールでの移動に、仁科さんが首脳陣に「一日飛ばしてくれ」と申し出たんです。

 仙台に夜遅く到着し、ホテルにチェックインすると、投手コーチの金田留広さんが僕の部屋に来て、「明日、先発行ってみるか?」と…。それまで、中継ぎで実績を積んでいたとはいえ、僕にとっては初めての先発ですよ。驚いたし、翌朝まで緊張で一睡もできない。しかも、球場は年に4、5試合しかやらない仙台。東北は僕の地元ですからね。故郷の富岡町からは親戚、友人らがバスでやって来るというし、ものすごい偶然で立派な舞台設定が出来上がっちゃったんですよ。

 結果は1失点完投。夢にまで見た初勝利をモノにしたんです。スタンドでは今は亡き親父も泣いていた。僕にとっては野球人生で最高の日ですよ。そのウイニングボールも、ユニホームも、思い出の品はすべて津波で流されました。

 【第二の舞台】

 プロ7年目、1986年のシーズンを最後にプロ野球の世界を引退しました。まだ25歳。これからどうやって生きていこうか? 自分自身でも答えを出せないでいたら、金田留広さんが中目黒にあった「サウナ34」への就職を斡旋してくれました。お兄さんの金田正一さん(400勝投手、元ロッテ監督)が経営されていたんです。

 そこにお客で来ていたのがプロゴルファーの青木功さん。僕はゴルフのゴの字も知らなかったけど、何度か顔を合わせているうちに親しくなり、「お前、ウチの事務所で働け」となったんです。月給20万円。生活は苦しかったけど、青木さんには随分と面倒を見てもらいました。

 一番の思い出は、1995年の米シニアツアー、トラディショナル。メジャーの大舞台、最終日に青木さんとあのジャック・ニクラウスが死闘を繰り広げ、プレーオフになりました。1980年のUSオープンで2人の死闘があり、日米マスコミが「バルタスロールの再現」と沸き立ったあの一戦です。

 あのとき、青木さんのバッグを担いでいたのが僕なんです。開幕の前日、日本から緊急連絡が入りました。福島の親父が亡くなったと…。青木さんは「すぐに帰れ!」と言ってくれたけど、僕は投げ出せなかった。「残ります!」と志願したら、青木さんは僕の目をジッと見て、「よし、わかった。お前の親父の弔い合戦をやってやる」と。それまで国内ツアーで青木さんとのコンビで何勝もしていたけど、親父の死もあって、あの闘いは忘れられません。

 勝敗が決したのはプレーオフ4ホール目でした。ロングホールでニクラウスは会心の2オン。青木さんは3打目もグリーンを外し、ようやく4オン。しかもカップまで10メートルは残していた。相手をたたえる意味で青木さんが自らのボールをピックアップしようとしたとき、ニクラウスが鋭い眼光で「最後までやれ! 許さない」と。次のロングパットを青木さんが沈めてパーセーブしたときの、ニクラウスの笑顔が忘れられません。

 今も若い選手たちのオファーがあれば、バッグを担ぎます。僕には青木さんと闘った経験がありますからね。先週のサン・クロレラ・クラシック(北海道・小樽カントリー)では久保谷(健一)のバッグを担いで、予選突破しました。秋以降も、平塚(哲二)のキャディーやテレビのコースリポーターなどで頑張るつもりです。それが被災地の母を励ますことができる、僕の仕事ですから。

 ■中居謹蔵(なかい・きんぞう) 1961年10月6日、福島県富岡町出身、49歳。地元の小高工の右腕エースとして注目を集め、79年のドラフト4位でロッテ入団。4年目の83年に1軍昇格し、この年25試合に登板して2勝を挙げた。1軍通算成績は26試合登板で2勝7敗。86年に引退。プロゴルファーの青木功事務所に就職し、89年から専属キャディーとなる。東海クラシック、カシオワールドオープン、三菱ギャランなど青木とのコンビで6勝をマーク。現在はフリーのプロキャディーを務め、TBSテレビのオンコースリポーターとしても活躍中。独身。

 

注目情報(PR)