“猛練習”の北海、ヤクルト若松を育てる

2011.09.12


「小さな大打者」若松勉(昭和52年6月)【拡大】

 「北の古豪」の称号をほしいままにしてきた。北海の夏の選手権35回出場は、松商学園(長野)と並んで全国1位タイ(春は13回)。北海道初の私学中として札幌市内に創立されたのが明治18年。創部は同34年で、110年の歴史を誇る。

 北海中時代の大正9年夏の選手権に初出場。このチームの2番・右翼手だった飛沢栄三が、のちに「北海道高校野球最大の功労者」と呼ばれる。早大卒業後に母校の教師となった飛沢は以後、監督・部長で春・夏32回も甲子園に導く。

 北海野球部創成期の名三塁手に木村一がいる。飛沢より6歳下の木村は函館商にいたが、北海に引き抜かれた。卒業後は、日本初のクラブチーム、函館オーシャン倶楽部でプレーした。この木村が、後に昭和を代表する喜劇俳優となる益田喜頓だった。

 飛沢は戦後、好投手を育てる。昭和33年のエース・荻野一雄は北海道初の完全試合を達成。甲子園出場はならなかったが、巨人、西鉄でプレーし、スカウトとしても活躍した。35年春・夏出場のエースで春4強、夏8強の原動力となった佐藤進は富士鉄室蘭では都市対抗で久慈賞を獲得。プロは国鉄、サンケイ、中日で通算50勝した。

 「お前たちは野球界に革命を起こせ。北海道の開拓者になれ」。部長時代の飛沢がゲキを飛ばしたのが、38年のチームだ。3番・中堅の谷木恭平、エースで4番の吉沢勝(のち巨人)で初の準優勝を果たした(優勝は下関商)。

 チーム大会通算22盗塁(5試合)。甲子園を「足」で沸かせたチームとして名を残す。準決勝は早実との激闘だった。2点リードされた9回裏、まず谷木が適時打(この試合4安打目)して1点差。すかさず、この試合5個目の盗塁を決めた。ここで吉沢の打球は右中間フェンスを直撃。谷木に続いて、吉沢まで一気に生還する、サヨナラ・ランニング本塁打となった。

 この早実戦の5盗塁がセンバツの1試合最多記録として残る谷木は、大会通算では9盗塁。2番・高木和富(8盗塁)とともに「北海のサラブレッド」と呼ばれた。塁に出るとスタンドから「ゴー! ゴー! 谷木」のコールが起こったほどだった。立教大で首位打者。新日鉄室蘭から中日入りし、2番・中堅として活躍。引退後は札幌でおでん屋を営みながらスカウトを務めた。

 このチームはその夏、初の全国制覇が期待されたが、夏の甲子園には出ていない。南北海道大会の決勝(対函館工)。一度は降雨コールド勝ちが決まったが、飛沢が「雨の力で勝つのはアンフェア」と試合続行を主張。試合は再開され、逆転負けを喫した。飛沢の野球に対する真摯な姿勢を物語る出来事だ。この頃、飛沢が選手に課した練習は、雪国のハンディを克服するためにし烈を極めた。スキーを履いての山岳ランニング。体育館の板の間での素手によるノックは有名。

 この年、スキー部か野球部かで迷っていた新入生は、この猛練習を見学して入部を決めた。若松勉だ。「プロで長くやれたのは、あの時の練習のおかげなんです。北海以外で野球をやっていたら、今の自分はありません」

 40年夏に甲子園出場。初戦敗退で1安打に終わったが、4盗塁をマーク。北海野球の片鱗を見せた。電々北海道からヤクルト入り。「小さな大打者」となった。2173安打で通算打率・31918は日本選手No.1。監督も7年務め、日本一にもなった。野球殿堂入りも果たし、解説やサンケイスポーツでの評論活動の日々だが、道民栄誉賞を受けるほど、北海道で一番人気のある野球人。日本ハム監督への待望論も根強い。

 北海は「甲子園史上最悪の悲劇」の主人公にもなった。46年春の出場が決まり、選手は甲子園に向かう青函連絡船に乗っていたが、野球部以外で暴力事件が発覚して出場を辞退。選手は青森から連絡船で引き返した。涙のUターンといわれる事件だった。その夏に意地の甲子園出場を果たしたが、以後9年間、大舞台から遠ざかった。

 50年代に復活。佐藤兼伊知はロッテの2番・遊撃で活躍し、現在は二軍コーチ。57年春出場の遊撃手・遠田誠治は新日鉄室蘭から中日入り。現在は地元で少年野球を指導する。有倉雅史は日体大から日本ハム、ダイエー、阪神で投げて引退。帯広三条高の部長、札幌国際情報高の監督となった。

 平成4年夏出場の堀田一郎は中大で主将、東都リーグの3冠王となって巨人入りし、バイプレーヤーとして活躍した。

 ことし、北海は春・夏の甲子園に連続出場。春は8強に進出した。北海道勢初の全国制覇は駒大苫小牧に先を越されたが、いつの日か…。=敬称略

 

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