プロ野球はシーズンも大詰め。いよいよクライマックスシリーズ(CS)、そして日本シリーズの行方が気になってきますね。
かつて西武に在籍したバークレオに聞いたことですが、日本のCSはペナント優勝チームに「アドバンテージ」がつきますよね。彼は「そんなの米国なら世間が許さないよ」というのです。確かに30球団もある大リーグですから、地区優勝して地区シリーズを勝ち上がり、ワールドシリーズに進出するところまでが戦いなんですね。
日本シリーズの話題はまたの機会に譲るとして、この時期、気になるのが“戦力外通告”。つまりクビです。
ボクは西武から巨人にトレード移籍して引退しましたが、まずは西武時代のことからお話ししましょう。
ドラフト1位で入団したものの1年目はファーム、2年目は米国留学をさせてもらいました。3年目はなんとか1軍にいられたのですが、4年目はまた2軍暮らし。
その頃のボクはといえば、「ウソ」「言い訳」「人のせい」ばかり。伊東勤さんら先輩がいて、捕手としての出番はなかなかない。「使ってくれたらオレはやれるのに」と思う日々でした。
これは「人のせい」であり「言い訳」なんです。うまくいかないことばかりで「野球なんてやめてやるよ」なんて考えたこともありました。
ボクの出身地、茨城・大洗は海がきれいで素晴らしい日の出が見られます。6年目の1月1日、このままではいけないと、海を前に「もう“ウソ”と“言い訳”と“人のせい”はやめよう」と誓ったんです。結局、その年もファーム暮らしだったのですが、翌年の正月も同じ誓いを立て、そのシーズンの途中で巨人にトレードになりました。
監督は藤田元司から長嶋茂雄さんに代わりましたが、ボクにとっては本当に「この人のために死にたい」と思える人に出会えるトレードになりました。移籍1年目から使ってもらって、日本シリーズではホームランも打てました。斎藤(雅樹、現巨人投手コーチ)さんをはじめ、素晴らしい投手とバッテリーを組むこともできました。
それでも、いつかは辞めるときがきます。
ボクの場合は、足首を痛めたのが原因ではあるのですが、真相はあるコーチの存在です。
1995年のシーズン。4月末に思いっきり空振りしたときに足首を捻挫したんです。これで3カ月離脱してしまったのですが、その後はテーピングをしないと痛みます。あるとき、テーピングに時間がかかり、少し練習に遅れると、そのコーチから「宿舎で巻いてこい」と怒られました。でもテーピングは事前に巻くときついんです。だから球場について、その日は出場すると分かってから巻きたいと考えていたんです。そんなことが続いたら、口もきいてもらえなくなったのです。
そんなある日、突然、そのコーチから「2軍に行ってくれ」と通告されました。ボクにしてみれば「なんで?」です。
理由を尋ねると「体にキレがない」と。耳を疑いました。前年は優勝して、自分でも体重を落として臨んだシーズン。しかも、前日に甲子園で代打ホームランを打っているんです。
その夜、原(辰徳、現巨人監督)さんと吉村(禎章、同コーチ)さんと食事に行く予定でした。荷物をまとめないといけないので、仕方なくユニホームのままあいさつにすると、原さんが「なんで? 悔しいなぁ、デーブ」といって涙ぐんでくれました。
これがきっかけでした。西武時代から“オヤジ”と慕っている根本陸夫さん(故人)の言葉を思い出したのです。
「チャンスはピンチ。ピンチはチャンスなんだ。お前がピンチになればチャンスをつかむやつがいる。1軍で“いらない”というときは、球団がいらないってことだぞ」
結局、今度も「コーチのせい」と考えたら昔と同じ。そこで決意したのです。以前から理不尽なこともたくさんあったし「もうやってらんねぇ!」って感じでした。そのコーチの部屋をたずね「辞めてやる!」とたんかを切って出てきました。
その足で、なじみにしていたおすし屋さんに1人で顔を出したのです。「オレ、辞めるよ」ともらすと、そのご主人は理由も聞かず「お疲れさま」といって、ビールを注いでくれました。泣けました、あのときは。
これがボクの引退の経緯です。次回は、その後の人生を支えてくれた人たちとの出会いをお話ししましょう。
■大久保 博元(おおくぼ・ひろもと) 1967年2月1日、茨城県大洗町生まれ。水戸商高から豪打の捕手として84年にドラフト1位で西武入り。92年にトレードで巨人へ。「デーブ」の愛称で親しまれ、95年に引退するまで、通算303試合出場、41本塁打。2008年に打撃コーチとして西武に復帰。現在は東京・新宿区の自宅で野球教室「デーブ・ベースボールアカデミー(DBA)」を開校。DBAは生徒募集中、問い合わせは(電)03・5982・7322まで。
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