母校の興南を率いて、史上6校目の甲子園大会春夏連覇を達成した2010(平成22)年。我喜屋優は60歳だった。年齢的には遅咲きだが、高校野球の監督としては4年目、わずか丸3年での快挙だった。
沖縄県勢として春は3度目、夏は初の大旗を故郷の南の島に持ち帰った。沖縄高校野球の土壌を築いた名将・栽弘義(元小録、豊見城、沖縄水産監督。故人)も果たせなかった偉業をたたえる県民栄誉賞を受けた時、我喜屋は言った。
「県民の長年の夢が、この賞に象徴されている。私は県民一人ひとりの栄冠だと思う。逆に私たちの方から“おめでとうございます”と言いたい」
栽と同じように、我喜屋も沖縄のチームが甲子園大会で優勝するなど、夢のまた夢の時代に生まれ、少年時代を過ごした。
太平洋戦争が終わってまだ5年ほど。我喜屋は1950(昭和25)年、沖縄県玉城村(現南城市)で生まれた。6人兄弟の3番目。本当は8人兄弟だったが、2人が戦争で犠牲になっていた。
自宅近くには米軍基地。当時の沖縄の少年の誰もが、米兵が興じるのを見て野球を始めた。我喜屋もそう。8歳の1958(同33)年の夏、首里が沖縄のチームとして初めて甲子園大会に出場している。
我喜屋はその後、家族とともに那覇市内に移住した。中学で野球をやるつもりが、そこには野球部がなく、陸上部に。棒高跳びで県の中学記録を塗り替えた。この才能を買われ、高校は私立の興南に誘われて入学したものの、野球への思いは捨て切れない。すぐに野球部に転部すると「陸上部の監督に、嫌というほど叱られた」。
その1年生の夏、1966(同41)年に興南は甲子園に初出場した。ベンチ入り選手は14人。プラス3人が練習手伝い要員として行くことになり、我喜屋はその1人に入った。沖縄は当時はまだ、本土復帰を果たしていない。パスポートを持ち、ドル札を日本円に換金しての甲子園入りだった。
練習で甲子園球場に足を踏み入れた瞬間を、我喜屋は忘れない。「人間が変わったような気がした」。チームは1回戦で敗れるが、以後の人生を決めたと言っていい「感動だった」という。
甲子園に「興南旋風」が吹き荒れるのは、その2年後の1968(同43)年の夏だ。3年生になった我喜屋は、主将で4番の中堅手として快進撃をけん引する。沖縄県勢初の4強進出に甲子園は沸いた。
「あの時、下手は下手なりに一生懸命やればできる、と思った」
この思いが、以後の我喜屋の野球人生を支えた。社会人野球での苦難を乗り越え、高校野球の監督として春夏連覇を達成した42年後、「チビっ子軍団が努力して大きいことをやったことに価値がある」と胸を張った。 (敬称略)
■我喜屋優(がきや・まさる) 1950年6月23日、沖縄県玉城村(現南城市)生まれ。沖縄の本土復帰前の68年、夏の甲子園大会に興南高野球部の4番・主将として出場し、沖縄県勢初のベスト4に。卒業後、大昭和製紙富士−大昭和製紙北海道へ。74年に都市対抗で北海道勢初の優勝に貢献。引退後は大昭和製紙北海道の野球部監督も歴任。2007年に興南高監督に就任し同年夏、24年ぶりに甲子園出場。その後09年の春の大会から、春夏ともに2年連続出場し、10年に春夏連覇。就任3年間で4度甲子園出場し、全国制覇1度。監督として甲子園通算12勝3敗。