「チームのために身を粉にして頑張ってきた選手こそが大事だ」−。我喜屋優は、その信念を貫き通した。センバツ初制覇に続いて、沖縄県勢で初の夏の選手権優勝の快挙に挑んだのは2010(平成22)年だった。
その夏の甲子園で打撃不振に陥った4番・真栄平(まえひら)を「外せ」と周囲は言ったが、「お前が監督か!」と一喝して真栄平を使い続けた。
振り返れば、春夏連覇を達成する道程の全11試合の中で最大の激闘だった試合で、その真栄平はヒーローになる。
夏の準決勝、報徳学園との試合は、4回を終わって0−5と追い込まれていた。それまでの4試合で3安打しか打てなかった真栄平は、この試合でも2つの併殺打に終わっていた。
だが、チームは5回に3点を返し、6回には1点差に。そして7回には同点とし、なお1死三塁で打席に入った真栄平は、中前に勝ち越しのタイムリーを放ったのだ。
信じて使い続けた教え子に待望のタイムリーが出たこの瞬間、我喜屋は沖縄県勢初の夏制覇、史上6校目の春夏連覇を確信。胸の中でつぶやいた。
「深紅の大優勝旗さん、もう観念したでしょう。そろそろ沖縄に行こうよ」
報徳学園に6−5で逆転勝ちすると、決勝では東海大相模に13−1と圧勝して凱歌をあげた。
優勝インタビューで我喜屋は言った。「選手が活躍できないからといって、マイナス思考になることはない。常に前向きで次のことを考えるのが興南の野球です」。勝利の瞬間は「いろんな沖縄の歴史を振り返って、胸が熱くなった」と漏らした。
沖縄の高校球児として甲子園に出場し、静岡での社会人野球選手としては「事実上の戦力外通告」を受けて北海道に移住。雪と戦う北の地で選手、監督として社会人野球でもまれた我喜屋が、高校野球の指導者4年目で春夏連覇の偉業を達成した。高校野球一筋の名将たちは、驚愕の賛辞を贈った。
興南の前、1998(平成10)年に松坂大輔を擁して春夏連覇を達成した横浜の監督・渡辺元智は言った。
「興南は、大平原で獲物を逃さぬライオンのよう。これほど強いチームは見たことがない。沖縄の風土を、沖縄の監督と選手が生かした風土野球だ」。もし、松坂がいたチームと対戦したら? と聞かれると「総合力は攻走守がそろった興南が上。ウチは松坂がノーヒットノーランする以外は勝てない」と答えている。
結果を出さなければ終わり。それどころか、不況で収益が上がらない会社からは解雇通告を受けかねない厳しい社会人野球の世界で、36年間も過ごした我喜屋。「なんくるないさ(何とかなるさ)」の気風で、とかく緩みがちな沖縄の高校野球に、一本の太い芯を通した。 (敬称略)
■我喜屋優(がきや・まさる) 1950年6月23日、沖縄県玉城村(現南城市)生まれ。沖縄の本土復帰前の68年、夏の甲子園大会に興南高野球部の4番・主将として出場し、沖縄県勢初のベスト4に。卒業後、大昭和製紙富士−大昭和製紙北海道へ。74年に都市対抗で北海道勢初の優勝に貢献。引退後は大昭和製紙北海道の野球部監督も歴任。2007年に興南高監督に就任し同年夏、24年ぶりに甲子園出場。その後09年の春の大会から、春夏ともに2年連続出場し、10年に春夏連覇。就任3年間で4度甲子園出場し、全国制覇1度。監督として甲子園通算12勝3敗。