−−嗚呼!!キネマの天地−−
さらば大船撮影所(2)

日本映画の黄金期→斜陽を見つめ

 「すべてがフル回転だった。夜もこうこうと明かりがつき、昼のよう。1000人以上の人がいて映画も4、5本を同時に撮影していた。競争だったなぁ」

 元松竹映像専務で、現鎌倉ケーブルコミュニケーションズ代表取締役社長の山内静夫(75)がつぶやく。山内が松竹に入社したのは昭和22年。松竹映画の拠点だった蒲田撮影所から11年1月16日、移転してきた大船撮影所は、日本映画の黄金時代とともに、輝かしい時代を迎えようとしていた。

 3万坪の敷地に鉄筋コンクリートのスタジオ八ステージをはじめ、49棟の建物があり、映画の企画から仕上げのプリントまで手がけていた。

 山内は大船の宣伝課から30年、監督、小津安二郎の「早春」でプロデューサーとなり、以後6本の小津作品を手がけた。撮影所に所属する監督たちが、それぞれの組で作品を手がける大船独特の制度「ディレクターズ・システム」により、映画が量産されていたころだ。

 小津を筆頭に木下恵介、佐々木康、大庭秀雄、吉村公三郎、渋谷実、中村登、川島雄三などきら星のごとく名監督たちが競い合っていた。事務棟の2階には監督の個室がずらりと並ぶ。そこを通るときには背筋がピンとなったという。

 「ステージのとりっこでね、でもおのずと秩序ができて、小津先生のような人はいい場所を確保できるんですよ。プログラムピクチャーばかり撮っている人は条件が悪い場所とか。でも、そういう良い意味での競争が大船映画を育てた」と山内。

 日本映画界屈指のカメラマン、川又昴(74)=映像鎌倉技術顧問=も20年入社。撮影助手として小津組に参加し、全盛期から斜陽の歴史をつぶさにみつめてきた。「本当にいい時代は31、32年まで。ぜいたくな仕事をしていた」。

 「松竹には、女性中心の作品と、一方で大島渚の流れがあって、僕は両方にタッチできた。大変幸せだった」という川又が特に思い出深いのが、松竹ヌーベルバーグの旗手・大島と組んだ「青春残酷物語」など3本の作品だ。

 「熱気がありましたよ。手持ち撮影は僕が言い出したんだ。あんまり画面が揺れちゃうと見苦しいと思ったけど、大島は、『これはおれの青春の敗北史だから画面がもっと揺れた方がいい』と言っていた。今はそういう第3の波、新しい波が出てこないといけないけど、どの会社にも色がなくなってしまった」と寂しそうだ。

 人生の大半を大船で過ごした2人だけに、閉鎖の決定は衝撃だった。だが、どこかではこの日が来るのを覚悟していた。

 山内は、「映画は非日常のドラマに身を置きたい、という好奇心を満たすもの。現実を直視し、人情の機微を描く映画は素晴らしいが、身につまされる話は現実で味わえる。となれば、大船調の映画をつくる松竹が、経営的に厳しく苦しい状態に置かれてきたのも仕方のないことかもしれない」と思う。

 「ついに来たか、と思った」川又も、「撮影所自体、ここ20年近くも赤字が続いていたから。大映京都のカメラマンだった友人には、『おまえのところは20年持ったじゃないか』といわれたが…」と話す。

 川又は今、昭和初期の映画フィルムの複製作業に携わっている。撮影所は新木場に移転する予定だが、大船撮影所近くに部屋を借り、そこで仕事を続けるという。

 「僕を作ってくれたのは松竹大船撮影所だと思うし毎日、壊れていくのを見届けるのはつらい。でも、僕は大船で骨を埋めたい。無理やり大船で仕事をします。いい思い出だけ残し、一日も早く忘れたい」。その声はいつしか涙声になっていた。

(萩原和也)=敬称略


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