龍谷大平安 甲子園最多出場を誇る名門校

2011.07.04


金田正泰シーズン18三塁打【拡大】

 平安野球の本拠地が42年ぶりに変わる。来春、新球場が京都市内の伏見区醍醐に完成。長い間、亀岡市内のグラウンドに学校(京都市下京区)から通っていた。喜んでいるのは選手やOBだけではない。地元のオールドファンもそう。

 「やっと京都市内に戻ってくる。亀岡ではあまりいいことがなかったからなぁ」

 全国最多の春・夏通算66回の甲子園出場を誇り、優勝3回、準優勝4回。通算90勝を数えるが、亀岡時代は今春まで、決勝に進んだのは1回だけ…。

 明治41年創部。昭和2年夏から7年春まで、なんと10季連続出場というのがある。その時の主力メンバーは“外国人”だった。台湾人の3選手が留学して入部。それぞれ伊藤次郎、稲田照夫、西村喜章という名前でプレーした。

 3年夏には準優勝投手となる伊藤は計7回出場し、法大からプロのセネタースに入った。準優勝チームで三塁を守った香椎瑞穂は日大桜丘(東京)の監督となり、47年にジャンボ仲根(正広、元近鉄)を擁してセンバツ優勝を飾る。右翼手の内海五十雄は法大から巨人入り。川上哲治、千葉茂とは同期だ。現在の巨人で左のエースとなった内海哲也の祖父にあたる。五十雄は巨人で実動2年。哲也が小4の時に亡くなったが、巨人時代の背番号26を孫が引き継いだ。

 初の全国制覇は13年夏。中心選手が西村進一(当時は木村姓)だった。立命館大を中退してプロの名古屋軍入りしたが、戦争で右手首を失った。戦後、母校の監督に。義手にボールを乗せて左手でノックする“隻腕監督”としての熱血指導が実り、26年夏に優勝監督となった。

 西村の1年後輩に金田正泰がいる。阪神では首位打者を獲得。シーズン18三塁打はいまだ破られていないプロ野球記録だ。1番打者としてダイナマイト打線をリードした。引退後は監督も務め、タイガース一筋に生きた。

 金田同様、プロで好打者として鳴らしたのが近藤和彦。甲子園は28年春、代打で1打席に終わったが、明大から大洋(現横浜)入りして開花。バットを頭の上で横に寝かせる「天秤打法」で通算1736安打した。坂本敏三は立命館大−河合楽器を経て阪急入り。俊足の1番打者として盗塁王になるなど、第1期黄金時代に貢献した。

 衣笠祥雄も平安のユニホームを着た。広島で2215試合連続出場の「鉄人」は、39年に4番・捕手として春・夏の甲子園へ。エースに植木一智(龍谷大−阪神)、一塁に梅村好彦(龍谷大−南海)らがいたチームで、連続8強入りしている。

 異色のOBは上方落語家の笑福亭鶴志(55)。肥満体型が示す通り? 選手時代は捕手だったが、甲子園には出られなかった。

 平安にも低迷期があった。55年春から平成2年夏までの10年間は部史上で最長のブランクだった。甲子園から遠ざかった時代の象徴的なチームで、桧山進次郎は主将を務めた。3年夏の京都大会で1回戦敗退。しかも、その相手は京都の私学ではNo.1の進学校・洛星…。「肩身が狭くて、長い間、メンバーはOB会には出にくかった」。桧山はその汚名を自身のバットで払拭する。東洋大で活躍して阪神入り。長くクリーンアップを打ち、40歳を超えた現在は「2代目代打の神様」。いまや、平安ОBといえば桧山で、古いOBたちにも認められる存在になった。

 原田英彦が監督に就任して以降、平安は復活した。原田は平安では中堅手。日本新薬時代に都市対抗出場10回の実績がある。1年生からエースとして育ててきた左腕・川口知哉が3年生になった平成9年に、春は8強、夏は実に41年ぶりの決勝に進出した(智弁和歌山に3−6)。ビッグマウスぶりも注目された川口は4球団競合の末にオリックス入りしたが、未勝利のまま引退。現在はサラリーマン生活を送る。

 甲子園の常連に戻った平安は以後も多くのプロ選手を輩出。立命館大から阪神入りし、広島に移って俊足・好守で外野のレギュラーをつかんだ赤松真人。西武の正捕手・銀仁朗らが活躍中だ。

 平安新球場は総工費9億円で、両翼100メートル、中堅120メートル。校名が「龍谷大平安」となって以降も指揮を執り、歴代でも一番の長期政権となった原田は気持ちを引き締める。「強くならなければ、という使命を感じます」。昭和31年夏以来の全国制覇へ。豪華な新球場が“道場”となる。=敬称略

 

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