NHK大河ドラマ「どうする家康」が始まりました。徳川家康といえば沈着冷静で、どんな物事にも動じない大物といった印象ですが、今回登場する家康は少し違うようです。次々と押し寄せる難題にオロオロし、迷ってばかりの身近な人物として描かれるらしく、それだけにどうやって天下人に上り詰めるのか、今後の展開に目が離せません。
そこで関西にも、大物らしくない家康の逸話がないか調べてみました。すると興味深い話が見つかりました。江戸時代に繁栄を極めた「東海道五十三次」を整備した際のエピソード。家康の意外な一面がうかがえます。
東海道五十三次といえば、歌川広重の浮世絵や、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などで知られる江戸時代の繁栄を物語る象徴、といった印象ですが、実態は家康が天下統一のために、江戸城と、朝廷のある京や豊臣家の大坂城との連絡を迅速に行うために整備した、いわば軍用道路でした。しかも「大坂夏の陣」から4年後の慶長20(1615)年、すでに整備していた東海道に豊臣秀吉が伏見城築城時につくった「京街道」をつなぎ、京と大坂の間に「伏見宿」「淀宿」「枚方宿」「高麗橋宿」の4つの宿を設けたため、当初の名は「東海道五十七次」だったと記録されています。
しかし次第に「東海道五十七次」は忘れられて江戸と京を結ぶ東海道のみが繁栄し、名も「東海道五十三次」に変わりました。その主な原因こそが、家康の意外な仕掛けだったそう。しかも江戸から来た人たちが京に出入りする場所を、五条大橋から三条河原の処刑場が見える三条大橋に変えるという、陰の仕掛けだったと云われているのです。
